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<Web ちゃっきりむし 1988年 No.75〜78>

● 目 次
 渡辺一雄:斉藤偏理君の思い出 (No.75)
 長澤純夫:佐藤偏理君のこと (No.76)
 平井克男:雑虫・雑木・雑草 (No.77)
 白井和伸:南北問題について (No.78)

 ちゃっきりむし No.75 (1988年3月10日)

  斉藤偏理君の思い出 渡辺一雄 

 斉藤君との初対面は,浜一中(現浜松北高)に入学した昭和6年4月のことである.日本に昆虫趣味が普及し始めた頃である.

 彼は虫採りと標本作りの名手で,当時としては珍品のヒメハルゼミ,ハッチョウトンボ,ムカシトンボをつぎつぎに発見した.ガロアムシも県下ではもっとも古い記録であろう.甲虫類に関心が深く,デオキノコ,オオキノコ,エンマコガネなどの小型種をよく集めた.

 中学卒業後,セミ博士の加藤正世氏に弟子入りしたが,間もなく帰郷して,静岡の農事試験場に入り,ズイムシの天敵の研究をした.戦地での期間は長かったが,中国で,九大の安松京三氏を団長とする学術調査団にあったことを,アカオビシジミの鱗粉転写をはった葉書に,感激を込めて知らせてくれた.

 戦後は中学教師の道を選び,昭20年代には寸又川をのぼり,南アルプス昆虫調査の先鞭をつけた.甲虫の研究から離れ,蛾の世界に入った.誰もあまりやらない早春や晩秋の蛾の世界に熱中したが,1959年12月末,帰路で輪禍にあった.

 彼は開拓精神旺盛な自然児であった.

 ちゃっきりむし No.76 (1988年5月21日)

  佐藤偏理君のこと 長澤純夫 

 「ちゃっきりむし」75号に渡辺一雄さんが,級友の佐藤偏理君を偲ぶ思い出をつづっておられたが,私も彼とは生涯に三度のめぐりあいを持っている.

 昭和7年(1932年)4月,私は父方の伯父のところからは母方の祖父の家にあずけられて,浜松一中(現浜松北高)の2学年に編入学,翌年7月まで在学して,彼とは同じ教室で勉強した一時期がある.昆虫を含めて動物や植物が好きで,博物学の柴田小三郎先生の授業が,私には一番楽しい時間であったが,昆虫採集が許され,虫の本を見ることができるような境遇にもなかったことから,彼とは特に親しく語り合うという機会はなかった.彼がある日教室に持ってきた蝶の標本箱に非常な羨望を抱き,初めて見た「昆蟲界」の表紙に強烈な印象をうけたことを覚えている.渡辺さんが書いておられるように,彼はまさに自然児で,規律の厳しかった当時の中学校の枠からは,しばしばはみ出しかねない存在でもあったようである.

 それから10年して,昭和17年(1942年)6月23日(火曜日)付の朝日新聞紙上で私は彼に再会した.大陸の戦線にあった彼が,日本からの山西学術調査団を訪ねて,昆虫学担当の安松京三氏に,戦陣の合間に集めた膨大な標本を託されたことがそこに報じられていたからである.戦時中のわずか2面しかなかった当時の新聞に大きくスペースをさいて,顔写真も入った,次のような記事が載っていた.原文のまま記す.

 『討伐の暇に蒐む昆虫の標本.山西に"科学する兵隊".(太原にて宮本特派員発).これは"昆虫と兵隊"の一篇,本社後援山西学術調査団余録である.調査団が五台山に踏み込むに先立ち,○○駐屯部隊へ一夜の宿を借りたある初夏の夕であった.色白な若い上等兵が一人,「動物班の虫のかかりの先生はいらっしゃいますか.」と入ってきた.昆虫学専攻の安松京三氏(九大助教授)が立って迎えると,その上等兵は「これを・・」と一包みの箱を同助教授の前においた.開いてみると,それは夥しい昆虫標本であった.「自分は○○部隊本部佐藤偏理であります」.兵士は学者の驚く注目の中に赤くなりながら名乗った.斉藤上等兵は浜松田町斉藤謙三氏の次男,幼少の頃から昆虫が好きで,蝶やトンボを蒐集することから,浜松一中時代にひとかどの「昆虫研究家」になりすました.静岡県農事試験場勤務中応召,北支の山野を銃剣とともに跋渉することとなったが,斉藤上等兵にとって昆虫網もまた貴い一本の銃であった.折りたたみ式の昆虫網を腰に,三角袋(昆虫採集袋)をバンドにしっかり結びつけて,同上等兵は五台山一体を隈なく踏破した.勿論討伐行の一勇士としてである.人跡未踏の山や川,斉藤上等兵は行軍の小休止,大休止の間を利して昆虫網をふりまわした.匪賊の捕虜の数十倍,数百倍する昆虫の捕虜が,討匪行の幾度かのちに箱一杯になった.何とかして内地の専門家に手渡したい.同上等兵の念願はこれのみだった.そこに現れたのが調査団である.「失礼を忘れてお部屋に飛び込んできました.どうかこの標本を今度の収穫の一部にお加えください」.蝶,甲虫などを中心とする五百余種の珍奇な"昆虫集成"であった.安松助教授は思わず喜びに紅潮して箱を押しいただいた.「有り難く頂戴いたします.何よりの収穫です」.さう繰りかえした.それは美しい光景だった.翌日調査団は砂塵の中に進発した.』

 私はその日,明日もわからぬ病床で繰りかえしこれを読んだ.

 さらに14年して,昭和31年(1956年)10月6日に,三重大学で開催された日本昆虫学会第16回大会の折,彼とはもう一度会っている.そのとき彼は「長澤君は中学で昆虫採集などしてなかったが」と言っていたが,たしかに私が本格的に昆虫学に取り組むようになったのは,中学を出て石井悌博士に師事するようになってからである.

 再会を約束したまま,彼はそれから3年後の1959年12月に,採集行からの帰途,輪禍にあって忽然とこの世を去った.それを私が知ったのは,加州大学の留学から帰国した1961年のことである.もし彼があのときそのような不幸にあわなかったなら,おそらくすぐれた採集家として,日本本土だけでなく,世界の各地にも遠征して大きな功績を残したにちがいない.すでにそうしたことのできる時代がすぐそこまでやってきていただけに,その早逝が惜しまれる.

 ちゃっきりむし No.77 (1988年9月21日)

  雑虫・雑木・雑草 平井克男 

 甲虫をやっている人たちから「雑虫」という言葉を聞くようになった.始めのうちピンと来なかったが,その意味する所は,カミキリムシ,クワガタムシなど以外の甲虫をさしているようである.地球上に棲息するかけがえのない種であるのに,雑虫とは何事かと,とても不愉快に感じたわけである.しかしながら,甲虫目の科が130にも分類されていることを考えると,簡便な言葉かもしれない.いまの所辞書に見あたらないので,市民権を得ていないようである.

 ついでに雑木,雑草の意味を調べてみた.雑木とは良材とならぬ種々のの樹木,薪材などにする木という意味であり,雑草とは,農耕地で目的の栽培植物以外に生える草本である.いずれも人間の都合上意味が規定されているのである.雑木としてひとまとめにされた樹木でも,マツの類など,節が多くて不適とされたものが,かえって自然らしくてよいと,家具調度品に作られたりしているし,ブナやナラの家具も多い.ブナやミズナラなどの伐採後植林されたスギやヒノキの人工林は,山くずれ,洪水など災害を防ぐのに,雑木林より劣っていると言われる.昆虫との関わりでいえば,スギ,ヒノキ林よりもはるかに多くの昆虫類が棲息できる雑木林に夢大きな,数多くの昆虫少年が育まれる要因があると思うのである.雑木林の減少に歯止めがかかることを祈るばかりである.雑草についても,同様にひとまとめにされて窮屈な思いでいる種も多いのではないだろうか.

 雑虫・雑木・雑草と,雑の時でまとめられてしまっている生物に,常に注意を向け,人々に知らしめていくことが,我々に必要ではないだろうか.雑虫の中に無数の研究テーマ,課題があると強調したい.

 ちゃっきりむし No.78 (1988年12月21日)

  南北問題について 白井和伸 

 学生時代,経済学部昆虫学科を自称していたからといっても,世界経済の話ではありません.地域間格差の話です.先進国<低開発国の地域格差問題を南北問題というのに対し、先進国同志のそれを北々問題といいます。チョウの分布に関しては,静岡県は先進地域とされていますから,北々問題と題してもよかったかもしれません。

 さて,私が駿河の昆虫No.140に,県西部のズグザロシロチョウ,エゾスジグロシロチョウの分布資料を報告した際,次のようなことを記したことがありました.駿河の昆虫No.89の高橋真弓氏によるエゾスジグロシロチョウに関する報文の中の分布図を見た時,プロットがあるのは県の中部ばかりで,大井川以西が真白な大井川がまるで分布境線に見えた、云々.

 駿河の昆虫の報文を地域別に数えたことはありませんが、中部が最も多く,東部(富士山周辺)が続き,伊豆と遠江がぐっと少ないであろうことは容易に想像できます.私が住む浜名郡について考えてみても,新居町はともかく,雄踏町にはウラナミシジミ1種のみ,可美村と舞阪町に至っては、おそらく報告された記録はなかったのでてはないかと思います.まさに後進地域です.遠州nativeの私としては,歯がゆい限りで,何とかしたいものだと日頃考えているところです.もっとも歯がゆいと言っている本人がまるで調べていないのですから,お話になりません.いかに自分の足元を固められるかがnativeを標榜する者にとっての軽重を問われる点ではないかと思います.一朝一夕で先進国に仲間入りすることはむずかしいでしょうが,21世紀を迎えるまでには、遠州かNIESと呼ばれるくらいにはしたいものと考えています.