「おまえはボロの蝶ばかり選んで集めているのか!」としかられそうである.私だって汚損した蝶よりも新鮮な蝶の方が好きである.しかしそれは私の好みの問題であって,標本の価値の問題ではない.羽化したての新鮮な個体を採集したときは,「これはきれいだ」とうれしい気持ちになっても,「これは値打ちものだ」などと思ったりしない.
「完全な(破れたり鱗粉が落ちてたりしない)標本でなければ価値がない」とゆうことは昆虫採集を始めたばかりの少年でも知っている常識らしい.そんなことを知らない私は,少年時代,「子供の化学」の読者交換欄を見て,汚損した蝶ばかり送ってしまい,返事が来なかったことにひどく落胆したものだった.いったい「価値がない」という根拠はどこから来たのか.たしかに新種などの記載,図鑑などの印刷物に乗せるときは,汚損していない方がいいだろう.もっとも図鑑は片翅さえついていればよい場合もあるし,かつて横山図鑑のヤクシマルリシジミは破れていたからこそ,強く印象に残った.変異の研究や同定用にしても,それほど新鮮な個体でなくとも用は足りる.とのような場合にしても,遅くしていない方が都合がよいと言えても,価値がないとゆうことにはならないではないか.
そもそも標本とは何か,自然の様子を記録・保存するためのサンプルではないか.そのとき見られた蝶の中から任意抽出するか,平均的な破損程度の個体を採集してこそ,標本としての意味がある.翅のすり切れたオオムラサキ,ユリの花粉のついたキアゲハ,しみのついた越冬後のスジボソヤマキチョウ,翅の一部を鳥に食いちぎられたクロコノマチョウ・・・・.翅の汚損は生きていた証である.羽化したての一度も野外を飛んだことのない飼育標本などと比べものにならないほどの価値を感じる(もちろん真の価値はその記録としての重要度によるものであるが,新鮮か汚損かと問われれば,という意味である.)
それでも完全なものの方が価値が高いとゆうならば,いったい生物の標本を何と心得ているのか.「商品としての価値だ」とゆうならば納得することにしよう.それなら自ら標本商かそのアルバイトだと名のるようなものだから,人前で「破れているから価値がない」などといわない方がよいだろう.
ウスバシロチョウは本当に生息していたんだろうか?それとも,道徳的説話としてつくり出された虚構にすぎないのだろうか?こんな話があと数年後にやってくるようなところにウスバシロチョウが生息していた.
それは,ウスバシロチョウの分布が,環境との相互関係から一応の説明ができるようになってきた現在,説明できる部分は未知の部分に比べれば,まだ,ほんのわずかである.そればかりではない.自然科学が進歩すればするほど,その新たな発見はまた新しい謎を生み出すのが現状である.その意味での,この蝶がわれわれの前に立ち現れる謎は無限であるといってよいであろう.
この衝撃的連絡は,日本中がプリンセス・ダイアナに熱中していた5月10日に市内に住む蝶友達の脇一郎氏からの電話であった.たまたま,自宅付近に食事を採りに行ったら,この蝶が飛んでいたのである.(未発表,3♂採集,2頭目撃)
その場所は自分の住んでいるところから車で5分のところである.次の日曜日に行くと本当にいたのである.(1♂採集)
従来,静岡県・山梨県では,富士山本体には生息していないのが定説となっていたのだが,近年,続々と新産地が報告されているように,神奈川県でも,東円沢,西円沢など,従来生息していないといわれたところからも,新産地が見つかっている.いずれも生息地と隣接しており,綾瀬市の本種の生息地は,自然が残っているといっても,一番近い産地から15Kmも離れている.また,神奈川県を貫通している相模川以東から産地は発見されていなかった.
こういった突拍子もないところにいるウスバシロチョウは,それがどこから飛んで来たのか,また,どうやって生息したのか,想像するのは楽しいものである.ここで採集された数頭のウスバシロチョウが放蝶によるものでないとすれば,この謎解きそのものは自然科学そのもので,蝶の生命の世界に入り込むのは蝶屋の宿命かもしれない.
標高1000m前後の富士山麓に広がる草原は,これまで草原性蝶類の宝庫といわれてきた.事実,草本植物の種類も多く,ヒメシロチョウ,ゴマシジミ,アサマシジミ,そのほか南アルプスの草原には見られない草原性蝶類の好適な生息地となっていた.しかし,近年,ことに静岡県側の山麓において,スギ,ヒノキの植林地や広大な牧草地,別荘分譲地などがいたるところにできて,かつての草原は急速に失われ,たとえば西麓では,県道人穴・焼間線の県境付近をのぞいては,ほとんど見ることができなくなってしまった.これに対して,北富士や東富士の自衛隊演習地の草原は,地元の人々の草刈り場として利用されていることもあって,30年前の状態とあまり変わっていない.
私個人としては,日米安保体制には反対であるし,現在の自衛隊のあり方は憲法違反であると思う.しかし,これらの演習地が,今,民間に払い下げられたらどうなることであろうか.富士山麓に残された草原に大資本が,ハイエナかハゲタカのように襲いかかり,たちまち数年にして,レジャーランド,ゴルフ場,テニスコート,別荘地と化してしまうだろう.考えるだけでも背筋が寒くなってしまうのである.現在の自然保護運動には,このような巨大な力を押しとどめるだけの力量はない.まことに皮肉なことに,自衛隊の存在が富士の草原を守っている,といわざるをえないのである.沖縄でも,米軍が管理している地域に貴重な生物が残されており,これが民間に移されたら,たちまち"開発"によって,自然がすっかり破壊されてしまうだろうと指摘するむきもある.
この夏,私は,富士山の草原性蝶類の"ルーツ"を求めて,三たびソビエトへ出かけ,バイカル湖周辺のすばらしい草原環境を見てきた.そこには,富士山の草原性蝶類のほとんどがそろい,さらに日本では"高山蝶"となっているものや日本には見られない草原性蝶類が加わって,その個体数はおびただしいものであった.そして,このシベリアの草原で,ふと富士山の草原のことを思った.
それにつけても,理念と現実との大きなずれ,それに,どのようにしたら富士山の草原を保存することができるのか,心を悩ましているこのごろである.
C.B.ウィリアムズ(1889-1981)による「昆虫の渡り」が出版されたのは,1958年以来,この名著は,日本ではおそらくごく少数の人にしか読まれていなかったのではないだろうか.日本の応用昆虫学は順調に発展を続けているが,昆虫の行動面,特に移動に関する研究はいまだに非常に遅れているのが現状で,そのために本書が日の目を見る機会を失っていたといえよう.
ウィリアムズは英国の昆虫学者であり,昆虫が鳥のように自らの意志に基づいて移動を行うことがあるという説を,多くの調査をもとに初めて打ち出した学者である.本書には,英国を始めヨーロッパ,アフリカ,アメリカなど全世界において観察された蝶や多くの種類の昆虫の渡りの例が,実に豊富にかつ詳細に紹介され,渡りに関する諸問題についてウィリアムズの考えが述べられている.これらの結果から,昆虫の渡りが古くから知られていたアフリカのトビバッタ,アメリカのオオカバマダラなどと同様に,蝶,トンボ,テントウムシなど身近な昆虫でも渡りを行っており,その現象は昆虫の正常な行動の一つとして行われているという驚くべき事実を読者は理解できるであろう.
本書には多数の昆虫が登場するが,原著では当然英名や学名(ラテン語)であり,それが日本のどの種に該当するかを調べるだけで大変な労力を要し,一般の人では原著を読むことは無理である.その点,訳者の尽力により確実な和名に訳され,また,索引の方法を原著と組みかえたのも見やすく,これにより本書の理解は容易に可能となった.訳者あとがきでは,ウィリアムズの偉大な業績を9ページにわたり紹介しているが,これも一読に値する.
昆虫の渡りの現象は,静岡県でも多数観察することができ,アマチュアの研究としては格好のテーマであり,本書を参考に昆虫の新しい楽しみ方として大いに渡りの知識を得てほしい.
訳者の長澤氏は,京都大学出身の昆虫学者で,クミアイ化学工業の生物試験場を経て島根大学教授に,退官後は清水市に在住している.昆虫の整理,生態についての幅広い研究の成果が知られている.名著が好訳者を得てよみがえったのを喜びたい.(池田二三高)