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<Web ちゃっきりむし 2025年 No.223-226>

● 目 次
 多々良明夫 会長就任のご挨拶(No.223)
 枝 恵太郎 元会長 高橋真弓さんのお別れの会に参加して(No.224)

 故高橋真弓元会長追悼号(225号)
  多々良明夫:高橋真弓さん追悼文集に寄せて(No.225-1)
  諏訪哲夫:高橋真弓さんから多くのことを教えていただきました (No.225-2)
  牧林 功:追悼・高橋真弓さん (No.225-3))
  水越雄二:巨星墜つ (No.225-4
  宇式和輝:高橋真弓さんを偲ぶ (No.225-5)
  池谷 正:山伏岳のベニヒカゲ (No.225-6)
  清 邦彦:富士川から世界へ (No.225-7)
  斉藤洋一:高橋真弓さんの想い出 (No.225-8)
  中西元男:「勝手に孫弟子」から (No.225-9)
  杉本 武:南米コロンビアでの高橋さんの思い出 (No.225-10)
  平井克男:高橋さんの思い出 (No.225-11)
  福井順治:高橋真弓さんとトンボの話 (No.225-12)
  大塚市郎:高橋真弓先生とボウソウヤマキマダラヒカゲ (No.225-13)
  斎藤伸行:高橋先生と私(No.225-14)
  枝恵太郎:高橋さんとの想い出 (No.225-15)
  中谷貴壽:アヤンを目指して (No.225-16)
  宮尾真矢:高橋先生ありがとうございました (No.225-17)
  城内穂積:残された課題 台湾の離島 馬祖島のムモンウラナミジャノメ(No.225-18)
  森田 東:高橋真弓先生、ありがとうございました (No.225-19)

  枝 恵太郎 2025年韓国訪問記(No.226)未公開

 ちゃっきりむし No.223 (2025年3月)

 会長就任のご挨拶 多々良明夫

 今回の役員改選で、諏訪前会長の後任として会長をお引き受けすることになりました。歴代会長の高橋真弓さん、北条篤史さん、そして諏訪哲夫さんの業績や知名度には遠く及びませんが、これまでの活動を引き継ぎつつ、会の発展のために尽力する所存でございます。
 当会は1953年に創設され、本年で73周年を迎えます。以来、会誌「駿河の昆虫」は、驚くことに体裁をほとんど変えることなく、年4回の発行を綿々と続けてまいりました。また、会報である「ちゃっきりむし」も223号を数えます。それ以外の活動も含め、当会は静岡県の昆虫相や生態の解明に大きく貢献してきました。それらもひとえに今まで当会の運営に携わった方々の多大なる努力があったからと思います。今後も静岡県の昆虫に関する知見を深めたり、昆虫の保全に果たす役割として当会への期待は高いものと考えます。
当会の会員数は最も多かったときより減少しておりますが、近年は、会員の高齢化が進みつつも、230人前後を維持しております。最近の入会者の傾向として、昆虫マニアというよりも自然に興味のある方や就学中の若い方が目立ちます。今後は、このような方々にも満足いただける活動を進めることで、会の発展や会員層の広がりが期待できます。そのため、会員諸氏に新たな企画や活動に関し、これまで以上のご意見をいただくとともに、ご協力をお願いしたいと思っております。
                             2025年2月

 ちゃっきりむし No.224 (2025年7月)

 元会長 高橋真弓さんのお別れの会に参加して 枝 恵太郎

 2025 年 5 月 15 日に静岡市中島屋グランドホテルで開催された、故高橋真弓さんのお別れの会に参加しました。高橋さんの業績については、ちゃっきりむしを読む方には周知の事実なのであえて書きませんが、個人的にはそして蝶研究をされる方は、高橋さんが著者の一人として参加された原色日本蝶類生態図鑑 I-IV(保育社)をあげる方が多いと思いことでしょう。「お別れ会」には、80 名近くの故人を偲ぶ方が参加されました。特に高橋さんと関係の深かった同世代の方の想い出話や、海外採集に同行された方の高橋さんのエピソードは、非常に興味深く、皆静かに耳を傾けていました。祭壇中央のご遺影と供花のそばに、映し出されていたビデオプロジェクタには終始、高橋さんの若い頃からのお姿や調査風景の画像が流されていました。そして高橋さんの使われていた昆虫関係の用品用具などの形見分けも行われました。



 お別れの会の終了後、チャーターされたバスでふじのくに地球環境史ミュージアムに移動し、現在開催されている企画展「蝶聖高橋真弓氏を偲んで」に多くの参加者が見学されました。展示には高橋さんの足跡がわかるよう、次のような展示がされています。若い頃からの写真や、手書きの調査記録ノート、静岡昆虫同好会の始まりから現在まで、数々の論文と標本、高橋さんが訪ねた海外各国の調査地、高橋真弓「語録」、高橋さんが実際に採集に使われていた昆虫採集用具(ネットと三角ケース)、毎年出されていた手書き彩色の年賀状、普段の生活の様子(好きな食べ物/嫌いな食べ物・ピアノ演奏時の楽譜など)、近年トレードマークだったベレー帽(昔のトレードマークだった下駄は南米調査の帰りにパナマ運河に捨ててきたということで、写真のみ展示)、ラベル作成のためのタイプライター(ラベルはほとんどが手書きであるが、海外採集品は同じデータが多いためやむを得ずタイプライターを使い、パソコンは使わなかった)、一眼レフカメラなど。



 企画展を一回りした後は、ミュージアムのバックヤードに保管されている高橋真弓コレクション(ドイツ箱約 300 箱に管理番号が付けられ、整然と並んでいる)を閲覧しました。整理中の標本やどのように整理収蔵されているかの説明をミュージアムの方が参加者に詳しく説明されていました。



 その後、図書室も閲覧することができ、司書の方から高橋さんが 1951 年にご自身で作られた「静岡縣蝶類分布総目録 I」の現物を見せていただくことができました。この資料は発行部数も少なく、非常に価値の高いものだということでした。図書室は昆虫関係の資料も充実しており、専門の司書の方が順次整理し閲覧できるように登録されているとのことでした。ミュージアムの滞在時間はおよそ 2 時間弱でしたが、たいへん貴重な資料を見ることができました。


 ちゃっきりむし No.225 (2025年9月)

 故高橋真弓元会長追悼号(225号)



 高橋真弓さん追悼文集に寄せて 多々良明夫(No.225-1)

 高橋真弓さんは本会の創設者であり、蝶に関する精力的な研究により本会の活動を牽引してまいりました。高橋真弓さんの蝶研究に対する姿勢や考え方は、多くの方に影響を与えたに違いありません。そのことは、2025年5月15日に開催された「高橋真弓さんのお別れの会」に全国各地から約80名が参加されたことにも表れています。私も2024年6月から9月までの3ヶ月という短い間でしたが、地球環境史ミュージアムのバックヤードで一緒に過ごしました。高齢にも関わらず蝶への情熱は衰えず、研究や書物に勤しんでおり、その情熱の持続としっかりした話し方に感心いたしました。
 このたび、高橋真弓さんを偲んで静岡県内外から18名の方に追悼文を寄せていただきました。追悼文の並び順はそのエピソードの古い順になっています。中高生の時からの思い出や一緒に海外の採集旅行に行った際のエピソードなど、高橋真弓さんの性格や行動が偲ばれます。
 ご多忙の中、心のこもったお言葉をお寄せくださった皆さまに、心より御礼申し上げます。お一人お一人の思いが、読む人の胸に届くことを願ってやみません。

 高橋真弓さんから多くのことを教えていただきました 諏訪哲夫(No.225-2)

高橋真弓さんとの出会い
 昔からよく「僕は燃費が良い。少量のガソリンでもよく動ける」とご本人がよくおっしゃっていたとおり、2024年4月、胃の変調で1週間ほど入院して点滴だけで治療していたが、何事もなかったようにミュージアムに元気な姿を見せた。また「僕はこれまでに3回死に損なった。1回目は生まれてくるときにへその緒が首に巻き付いて呼吸困難になった。2回目は静岡大学コロンビアアンデス調査隊に参加した際、乗っていたトラックが横転するという大事故にあい、隣に座っていた現地人が頭に重い荷物が当たって死亡した。3回目は自宅でくも膜下出血を発症し、次女の素早い対応で一命をとりとめた」と聞かされていた。4度目は今年の4月の入院後の復活、9月下旬5度目には再び胃の不調で再入院し、今度は残念ながら回避できなかった。
 1952年の夏、小学校4年生の私は、静岡市内の賤機山(浅間山)に登り山頂の近くでアゲハチョウなどを採っている時、大学生と思われるすらっとした、捕虫網を持ち、下駄を履いた男性から声をかけられた。この後一緒に尾根を北方に歩き通称臨済寺山まで来たとき飛んできたセセリチョウの一種に私がミヤマセセリだと言ったら、あれはホソバセセリだと訂正していただいた。今思えば当然夏にいるわけがないのだ。また、ヒメジャノメとコジャノメはどこが違うか知っているかと質問された。私はその時ちゃんと答えたはずもないが、もうこのころからやはりヒメジャノメだったか、と今になって思う。山を降りると大学生は自宅によって行かないかと誘ってくれた。今はこの地名はなくなっているが安東本町にあった。急な階段を上って2階に上がるとドイツ型標本箱が40箱ほど積み重ねてあったように思う。残念ながらここで何の話をしたかは全く覚えていない。
 私は自宅に戻り、今日あったことを父、母、兄に話をしたところ、なんと両親、兄とも高橋真弓さんをよく知っていた。真弓さんのお父様は清一郎さん、お母様は静子さん。お父様は県児童相談所の所長で県庁の職員、私の父も県教育委員会に勤めていて、なんと飲み仲間。しかも静岡ではなく昭和の初期、山形県鶴岡で2人とも教員をしていて、そのころからの飲み友達だったという。ちょうど100年も前から両家お互いに知っていたことになる。
 その年の9月、高橋さんに竜爪山(静岡市街地から良く見える1041mの山)に採集に誘っていただいた。私もまだ小学生、私の叔母や父親が昔遭難しかけた山でもあり、心配して兄を同行させた。今思えばかなり大変な山でよく連れて行ってくれたなと思う。このとき山麓の平山集落にウラギンシジミがたくさん吸水していたのが思い出される。
ある日、高橋宅の2階には謄写版印刷用のガリ版や鉄筆が置いてあって、同好会が設立されて間もないころで会誌「駿河の昆虫」の何号かの作成中であった。?を敷いた原紙に高橋さんが鉄筆を使ってすべて手書きし、印刷もゲル状のインクを使ってローラー印刷しているところだった。インクを2種類混ぜると仕上がりが良いとおっしゃっていた。これらを見ていた私はこの会に興味を抱いて入会したいとお願いしたが、小学校4年生ではまだ小さいからという理由でその時は入会させてもらえなかった。
 私が中学校、高等学校と進学し、何度となく高橋さんと採集にご一緒させていただいた。5月の連休の時には山梨県韮崎市の甘利山椹池の畔の小屋に2泊した。成果はヒメギフチョウを少しだけ採集した程度であったが、夕食を飯盒で作る際、水の量、火の強弱などご飯の炊き方をここで教わった。また、採集に行くたびにチョウに関することはもちろんであるが、植物の名前をずいぶん教えていただいた。私がその後農学部林学科に進むことになったのもこれらの影響があったように思う。時々我が家にも来てくださったが、近くに住んでいた宇式和輝さん、故石川由三さん、などと夜11時過ぎまで話し込むことが何度かあった。1962年8月、私の同級生の福知治君と共に安倍川流域の最高峰山伏(2013m)に連れて行っていただいた。今では林道ができて1時間も登れば山頂につくが、昔は一番のバスに乗って梅ヶ島村新田で降り、5時間ほど歩いてやっと山頂についた。もう午後になっていた。しかし山頂を中心に広がるササ原には美しいヤナギランやキオンが一面に咲き、そこにはベニヒカゲが無数に飛んでいた。疲れた体に鞭打って夢中で採集したのを記憶している。この日、高橋さんは登ってくる途中でいつの間にか、いまでは絶滅してしまっているが、ウラジャノメ、ホシミスジを採集していた。ここでは脳裏に残る経験をさせていただいた。
 若いころは視力2.0を誇っていた。私は裸眼視力0.1以下、乱視で全く及びもつかない。山梨県芦川にご一緒させていただいたとき、3−4m上の枝先にとまっているチョウを採集した。それはウラクロシジミであったが、チョウの触角だけが見えたので採ることができたといわれ、やはりすごい視力だと驚嘆した。また視力と相まって採集技術にも長けていた。普通どうしてもチョウを見るとすぐ採りたい一心でやみくもにネットを振ってしまうものだが、高橋さんは違っていた。止まるまで、あるいは飛び方がゆっくりとなるまでじっと我慢して、今だというときにさっと振る。このネットのスイングが速い。止まっているチョウにはなるべくネットを近づけてさっと振る。真似しようと今でも思っているがどうしてもネットを早く出してしまうことが多い。
 採集にご一緒すると、私などはその日の目的の種類にこだわってしまう傾向がどうしてもあるが、高橋さんはいわゆる普通種も丁寧に採集してゆく。昔は最普通だったヒメジャノメ、サトキマダラヒカゲ、サカハチチョウなど、今では激減してしまった種もしっかり採集し、ミュージアムに多くの標本を残している。
 高橋さんは得意なことばかりではなく、不得意なことともあったのか理由はよくわからないけれど、携帯電話、パソコン関連などを全くやらない。若いころは車社会を嫌っていた。子供さんには環境汚染の元凶ということだろうか「バカブーブ」と教えていたが、南米コロンビアに調査隊員で参加する際の必須条件となっていたため運転免許を取得せざるを得なかったが、家族をはじめ周りの人が心配する中、90歳まで運転していた。本来、車社会は好きではないけれど、公共交通機関が不便になり、やはり車を使った方が効率よくチョウの調査ができると感じておられたのだろう、なかなか車はやめられなかった。
 昔はチョウが多かったことや、普通種までしっかり採ったため、1回の採集行で採集した頭数は、かなり多かったと思う。展翅する数も当然多くなり、労力と時間がかかることになるにもかかわらず展翅は極めて丁寧、ラベルも一つ一つ手書きで書いている。パソコンでラベルを作れば大変楽なのだが、最後までご自分で書いていた。自分で書くと採集場所、採集日を記憶できるからだという。ちょっと言い訳じみているようだが、確かにそうだろうと思うがやはり大変。でも手書きだったのはコツコツ丁寧に物事を継続して行う性格と実行力が伴っていたからだと思う。このような姿勢をお手本にしようと思っていても、凡人である私にはまねができない。
研究の業績
 これまでに執筆した論文・報文の件数は膨大なものとなっている。静岡昆虫同好会会員の清邦彦さんが急遽著作目録を集録された。まだ途中なので欠落もあるという清さんだったが、是非にとお願して利用させていただいた。
 蝶類生態図鑑をはじめとする書籍への執筆はほぼ20件、「蝶と蛾」などの学会誌へは100余件、昆虫と自然などの雑誌へは110余件、地方昆虫同好会会誌はほぼ50件、静岡昆虫同好会会誌・会報合わせて900余件のほか、講演要旨及びその資料が60件余、新聞への投稿30余件、さらに俳句の同人誌「宇宙」への投稿も数回行っている。合計すると1400件ほどになる。これらの原稿をいつ書くのだろう。そのような時間をどのようにして作り出すのだろうか。採集にも行く、展翅にも時間がかかる。ピアノも練習すると決めている。睡眠、食事の時間も必須だ。普段仕事はゆっくりやっているように見え、ご本人もゆっくりやっているよとおっしゃっているのだが、そんな時間は凡人には簡単には作り出せない。高橋さんが大好きだった大相撲では「心」「技」「体」が重要だと言われるが、これに加えて何か特別なものが備わり、強い意志と計り知れない情熱をもって実行していたのだろうか。ごく最近奥様からお聞きした話では「毎日毎日が戦争だ」といってご自分を鼓舞していられたらしい。
 静岡昆虫同好会の草創期の昭和30年(1950年)代静岡県の昆虫相の解明は、微小昆虫はおろかチョウですら全国的に遅れていた。このため全県をくまなく回り生息状況を調べていった。ギフチョウ、ウスバシロチョウは伊豆半島にはいないとされていたのをご自分の目で確かめなければという気持ちで、何度となく調査し、分布していないことを確認した。この分布調査に向き合う姿勢に刺激され、多くの会員によりきめ細かな調査が行われ、そのデータが集積されて静岡県のチョウ類の生息状況が急速に解明されていった。
 「種」に対してのこだわりはキマダラヒカゲに始まる。普通種であったため同好者の関心を引かなかったが、安倍奥や富士山などの調査を重ねるうち山地で採れる個体と平地にいる個体は、色彩斑紋が異なるため「山地型」「平地型」と区別して採集報告などには発表していた。その後成虫の形態はもとより生態、幼虫の形態、食性、全国的な分布状況などについて綿密に調べ上げ、それぞれ別種であるとの論文を1970年、日本鱗翅学会誌「蝶と蛾」に発表された。続いて1973年発表されたこの2種の幼虫の日周活動は別種説を確実視させて面白い。
その後も「種」についての関心は深まるばかりで、最普通種である本州のヒメジャノメは沖縄のものとは種が違うという論文を1978年「蝶と蛾」に発表している。さらに台湾のワタナベキマダラヒカゲ、 ロシアのチョウセンヒメヒョウモン、韓国のホシミスジ、台湾のオオウラナミジャノメの中には隠蔽されていたもう1種がいるという新たな知見も発表した。最近では日本のミヤマシジミは大陸のものとは別種ではないかという意見をお持ちだったが、残念ながら発表するには至っていない。
 また、新種を発見し、記載もなさっている。1973年奥アマゾン探検隊の調査ではコロンビアでトンボマダラの仲間の1種(Sais browni)を採集、記載し、さらに、台湾に何度も足を運び綿密な調査をした甲斐あって、新種「タカオウラナミジャノメ」を発見し、記載している。これは台湾では最も普通な種のタイワンウラナミジャノメによく似ているためこれまでの永い年月、見過ごされてきたものと思われるが、高橋さんの目はかいくぐれなかった。
おわりに
 高橋さんはチョウにのみ興味があったわけではなく、音楽にも大変な関心を持ち造詣も深かった。末の弟・勝夫さんはファゴット奏者でかつて札幌交響楽団員、ドイツ・ケルン交響楽団員だった。ご本人はモーツアルト、ベートーベンをこよなく愛した半面、チャイコフスキー、ショパンは好きではなく、むしろ嫌っていた。大学生の時ピアノの練習を独学で始め、ハノン(指の練習用教則本)を指から血が出るほど練習し、継続した成果のたまもので、ベートーベンの「熱情」を暗譜し、弾くのをよくお聞きした。先日、ベートーベンのピアノソナタ「テンペスト」を聞いたとき、当時「熱情」を聞いたときの印象がよみがえり、高橋さんに話しかけられているような感覚にとらわれた。
いろいろなことを高橋さんから学び、本当にありがとうございました。
残念ながら他界されてしまったが、生前によくおっしゃっていたのは、「向こうに行っても採集に出かけ、報告を書くよ」と。
静岡昆虫同好会では投稿をお待ちしています。
でも今まで十分すぎるほど活動し、貢献なさいました。蝶が群れ飛ぶお花畑の中で、ベートーベンを聴きながらゆっくりお休みください。
合掌                    

1999年7月、ロシア・コムソモリスクナムーレ、バム鉄道列車内
中央:高橋真弓氏、手前:ガイドのウラジミール、奥:筆者

 巨星墜つ 水越雄二(No.225-3)

 私が昆虫少年の頃から先生は既に「静岡に高橋真弓あり」とうたわれたほど高名であこがれの人でした。そんな先生に直接お会いしてご指導いただいたのは大分後のことで、1955年10月1日、故手束喜洋さんとご一緒して先生にミヤマシジミ調査にご案内いただきました。確か川沿いのレストランのパーキングで待ち合わせだったと記憶しています。茅ヶ崎ではまだ珍しかったツマグロヒョウモンが飛び交っていました。先生は軽トラで現れ、安倍川を梅ヶ島までご案内され、途中既に破損期ではりましたがクロコムラサキのポイントを教えていただきました。採集後はご自宅に招かれ夕食をいただきながら標本を拝見、特に標本箱にびっしりつまった裏展のNeopeが印象に残っています。初対面から先生のお人柄、蝶に向き合う姿勢に触れ高橋ファンになったのはいうまでもありません。静昆に入会したのはもっと後になります。
 スリランカに同行した元会長の故北条篤史さんとのご縁もあり私のコレクションをふじのくにミュージアムに寄贈させていただいた次第です。因みに第1回の標本搬入日が2015年4月26日、この日北條さんがお亡くなりになりました。
 先生の訃報に接し尊敬する蝶屋の一人が又いなくなったことに寂しさを禁じえません。まさに巨星墜つ。心よりご冥福をお祈りいたします。

 追悼・高橋真弓さん 牧林 功(No.225-4)

 高橋真弓さんから最初にいただいた冊子は「静岡県東部の蝶類分布表」、こんな標題だった。これは白水隆先生晩年のご労作「日本産蝶類文献目録」に記載されていない。1950年代前半の著述で、彼との交際が始まって最初にいただいた文献である。その頃、私は小田原で神奈川昆虫談話会を立ち上げた。その例会に高橋さんをお呼びして、何回か講演していただいた。彼がその頃一生懸命だったのはギフチョウの分布だった。ギフチョウは西から分布してきて富士、伊豆、箱根には生息していない。この地域を飛び越えて丹沢山麓には分布している。彼はそれが気がかりだったようで、その調査結果を神奈昆の例会で話された。彼の熱意が神奈昆の会員のどこまで浸透したかは不明だが、多くの会員が感銘を受けて聞き入ったことは事実である。
彼は静岡県内で藁科川を遡行し、安部川を遡り、大井川を詰め更に富士川を遡った。彼はまるで自動精密機械のように枝折なす山道を1本1本歩き、いるかいないかを精査された。その結果は「駿河の昆虫」に逐一報告されたが、県外に網を振った結果はその地方の同好会誌に報告文を書かれた。冒頭に記した白水先生のご労作に記録された文献数は他者を圧倒して最多である。この精密機械のような調査はやがて台湾、サハリンから東、中央アジアへと広がり報告される。稀有な業績である。
 彼からは毎年、丁寧な年賀状が舞い込んだ。頂いたすべてを破棄せずに保管してあるはずだが、部分的にしか探し出せず、1968年から亡くなられた年の2024年までの28枚が出てきた(図1,2)。そのスタイルは若い時から亡くなる年まで一貫していた。恐らくその前年の観察と絡んだ蝶が描かれている。静大のコロンビア・アンデス学術探検隊として従事した翌春にはウラモジタテハの図柄を採用し、日本のNeopeは2種だと確信した翌春にはヤマキマダラヒカゲが描かれている。
 結婚されてからは令夫人・智加子様のお名前も必ず併記され、お子様ができるとそのお名前、学齢も必ず併記され、お子様が成人されるまで続いた。じつに律儀である。
 この独特な賀状スタイルが崩れたのは2003年(図1)、前年に体調を崩されたようで、御賀状には「体調も何とか元どおりになりました」と記された。そして昨年、それまで丁寧に蝶の絵を描いていたのが、急に写真に代わった。図柄は韓国産タイワンモンシロチョウ(図2)。私は彼が大分弱られたことを察知した。結局、この写真の年賀状が最後のものになり、帰らぬ人となった。山のような業績を残して高橋真弓さんは生涯を閉じられた。もう彼のような人物は出現しないであろう。ご冥福を祈り上げる。




 高橋真弓さんを偲ぶ  宇式和輝(No.225-5)

 まずは、これまで通して延67年余の長い時間、お付き合いいただきご教導賜りましたことに、衷心から御礼を申し上げたい。
 その間には私側の諸々の事情から交流が希薄になった時期もありつつ、常に暖かく見守り、折に触れて手を差し伸べていただいたことに、精一杯感謝のほかない。
 高橋真弓さんの研究や大きな業績等々については、諸賢・諸兄にお任せいたすとして、ここでは高橋真弓さん(以下、「高橋さん」と記すことにさせていただきたい。)とのいくつかの思い出を綴り偲ぶことといたしたい。
 先にお断りすると、実は後述する往時から私はずっと「高橋さん」・「マユミさん」と普段呼ばせていただいてきた。二人で話してもそうであったし、親しいメンバーで話していてもずっとそのままできた。
 ところがこの「高橋さん」・「マユミさん」には、後年私は大いに困ったものである。殊に日本鱗翅学会の会長に就かれて後には、学会をはじめとして皆さん「高橋先生」と呼称し、話をされる。ところがそうした中で私は気を付けてはいても、「高橋さん」がふと出てしまうのである。それでも、「マユミさん」はさすがに出ることはなかったものの、周り方々を考えて随分自ら困惑したこともあった。
 もう古い話となるが「ちゃっきりむし・No.154」に、『頂いた古い写真が語るものから』という拙文を投稿したことがある。話題の1つが手元にある静昆の集合写真で、会長・高橋さんを中心に自身も写っている。これには撮影日が書かれていなかったが、着ている制服から1958年の総会時と確認されたという辺りの話であった。高橋さんと一緒に写っている最も古い写真は、この1958年静昆総会の写真だと長い間思い続けてきた。
 今般、この長い時間の思いが突然に覆ったのである。
 「高橋真弓さんを送る会」に続く流れで、「ふじのくに地球環境史ミュージアム」の企画展「高橋真弓氏を偲んで」を見学した。多くの展示品の中に[1957年1月][諏訪哲夫さん提供]と明記されたキャビネ版ほどの1枚のモノクロ写真[真.1]があった。それには驚いたことに若い高橋さん・諏訪哲夫さん(以下、諏訪さん)を中央正座していて写っており、かなり緊張した顔の私もいた。因みに高橋さんは大学4年、すぐ4月には高校の教職に就く頃ということになる。1月であるなら私はまだ中学校1年。これこそが高橋さんと一緒の最古の写真ということになる。これまでに目にしたことのないものであった。今となってはこのメンバーが諏訪邸に集まったこと自体、覚えがない。考えるにすでに高橋さんと交流のあった諏訪さんが引き合わせてくれた折であって、高橋さんとの最初の出会いでもあったに相違ない。


 多分これが契機となって、高橋さんのお宅にお邪魔するようになってゆく。白地図に種別に記録地がプロットされた分布図というものを覚え、自分の視野が広がってゆく。チョウの分布や生物地理学というものの「かけら」をかじる機会までいただいた。
 夢中でチョウを追いかけていた高校時代であったが、1961年(高校3年)には高橋さんからお声がかかり、南アルプスの聖岳〜赤石岳の調査に随行した。初めてハイマツ帯のベニヒカゲを目の当たりするなど、私にとって忘れ得ぬ楽しい山行となった。
 幾つか忘れえぬ思い出もある、まずは森林限界を超え稜線に出た時であった。高橋さんがおもむろに山行スタイルを衣装替えされた。腰に「手ぬぐい(タオルではない)」、「ちびた下駄」といういで立ちにである。「ハイマツ帯の稜線はこれに限る。」「ちびた下駄は何より快適である。」とのご宣託付きであった。2つ目はどこの小屋でのことであったろう、ささやかな夕食時のこと。ザックからウニの瓶詰を取り出し、ニコニコしながら宣うに「ボクはこれさえあれば後何もいらないんですよ!」。余程の好物であったのだろう。この時の動作や表情が実に印象的で今も思い出す。3つめは高橋さんも報文に書かれた「グロンサンの瓶」のクモマツマキチョウである。聖沢を渡り急斜面を登り切った所にあった、聖沢出会所小屋(alt.1500m、現在はない飯場状の小屋)で一息ついた時の出来事であった。賄いのおばさんがクモマツマキチョウ数頭の入った瓶を見せてくれた。そして驚く二人に「春になればこの奥にかなりいる」と話しながら、その1頭を「1匹持ってきな」とこともなげに分けてくれたのであった。ぜひ一度は季節にここに、と思いつつ実現せずにいまに至っている。
 昆虫少年が大人になるまでに、ネットを置く関門は「入試」・「就職」・「結婚」の3つといわれるが、私の場合もご多分に漏れず、更に「東京転勤」という大きな要素が加わっていた。否応なく休眠期に入らざるを得なかったのである。当時は実生活自体厳しい環境であったし、今振り返っても精神的・物理的にも精一杯のものと考える。休暇で静岡に帰ることも時間経過と共に減り、高橋さんはじめ蝶友たちとの接点も、残念にも次第に薄くなっていった。
 そんな時間を過ごしていた、1979年の終わり頃だったと記憶する。突然、1冊の本が入った封書が届く。高橋真弓著『チョウ 富士川から日本列島へ』で、「謹呈 著者」のシールがついていた。まずは高橋さんの変わらぬお人柄とお心遣いを思って正直熱くなった。更なるインパクトは、この本には私も実名で2回出てくることであった。 まだまだこの時期、私自身部下なる者たちをも抱えて精一杯日々の仕事に没頭しており、結果的にチョウとは最も距離があった時分である。だがこの時の一連のインパクトが、後のチョウの再開には必須のものあったことは間違いない。
 時が流れ、精神的にも少しは巾が生まれたのであろう、休日の時々にはカメラ片手に狭山丘陵などを歩くようになっていた。気づくと野草やチョウの訪花などにもレンズを向けていた。やがて、大晦日新幹線最終での正月帰静のみから、漸く少しばかり機会が増す。いつの間にか義父の愛車スタンザを借用して安倍川上流を訪ねていたのである。 それはまったく唐突な出会いであった。1988年5月4日、安倍峠から義父と二人して林道を下っていると、ネットを持つ男性二人組が登って来た。それがなんと高橋さんと諏訪さんだったのである。聞けば近年分布拡大しているスギタニルリシジミの探索に来たとのことであった。何年ぶりの再会であったろう。思い返すと、ポイント・ポイントで接点が浮かんでくる。
 パジェロ(初代)が家にやってきた。必然的に行動半径が広がり、頻度も増す。赤富士を狙って真夜中の中央高速道路を走ったことも少なくない。かつて歩き回った安倍奥も、より広くより深く季節を変えて訪れた。安倍峠・地蔵峠など東京の自宅から日帰りしたこともあった。
 安倍奥の山々の変貌した現在の姿を目の当たりにした。往時のベニヒカゲの乱舞など夢のまた夢、ササに覆われ単調な植生の山伏、遷移が進みあの思い出深い草原すら寂しい姿を晒す井川峠など、殊に衝撃的であった。経過した長い時間を一気に短縮して、悲しい変貌ぶりを見せつけたのであった。
 そんななかにあって、自ずとでも言おうか、井川峠のセフィルス類にン十年ぶりのネットを振っていた。むろん標本にしている。そして、一旦チョウを再開した以上はと、静昆の集まりにも極力参加するよう努めた。高橋さんはじめ、在静の往時のメンバー皆さんが暖かく迎え入れてくれたのが、何より嬉しく思えて感謝しきりであった。
 静昆の「60周年記念誌」(2013年12月発行)に、かつて繁く通った井川峠を取り上げ、『「井川峠の追想」今昔〜そして安倍奥の山々』として投稿した。峠の植生とチョウ相の変貌と思い出、そして調査の歴史、衰亡したいくつかの種について述べている。1951年の高橋さんによる8日間にも亘る調査は、安倍奥のチョウ類調査の嚆矢であり新時代を開いたものであると、私は常々思ってきた。その調査結果報文3篇を探したところ、1篇はすぐ見つかったものの、他の2篇は国会図書館まで探し回った都内では見つけられないでいた。(1952年「信州昆虫学会会報」(5)に発表された『安倍奥梅ヶ島の蝶』は、上田市の信州大学に保存されているのが判明しており、後に娘が旅行途次コピーを入手。)「1953年「虫の手帖」2(1)の『井川峠の追想』に至っては手掛かりすら掴めていない。この報文はこれまた珍しい散文調の表題を持ち興味をそそられるもので、まことに残念に思っている」旨を書いている。
 2014年2月末であったと思う。高橋さんから大きめの封書が届いた。開けて驚いた。その封筒の中には氏のお手紙と共に、探し歩いた『井川峠の追想』のコピー[写真2.]が同封されていたのである。前述記念誌の拙文に目を通されて、氏の幅広い人脈から未だ保管されている方を探し、コピーをお願いしてくれたのであった。予期すべくもない突然のプレゼント、本当に嬉しいものだった。探しまわった報文が入手できたこともさることながら、それ以上に、そのお心遣い・ご厚意が感謝しきれぬほど嬉しかったのである。
 拙文の『「井川峠の追想」今昔』という表題は、豊かであった井川峠、変貌してしまった井川峠への追想に、氏の『井川峠の追想』という報文を探し回った追想をも重ねた二層構造であった。それが、事前に話されぬままコピーをお手配・お送りいただいた感謝の追想をも入った更に重層の追想となった。この折のお手紙とコピー原本とを、今もセットで、大切に保存しているのは言うまでもない。
 私の懸案の大井川上流・二軒小屋あたりのチョウの生息現況の調査を、スタートさせたのが2000年であった。昔を振り返ると、この地域での調査時に私の重点が高山帯のチョウたちに向いていて、渓谷部分はアプローチ・通過点とでもいった位置付けだったとの思いがある。改めてページを繰った駿昆に近時同地域の報文・記録がほとんどない。そんなこともスタートの要因の一つであった。東京からゆえ往復に余計な日数も余分に掛かる。朝早い新幹線で出発しても、静岡駅からバス・リムジンと乗り継ぎ二軒小屋着は16:30。やがて、前夜自宅発でパジェロを走らせたり、夜行の畑薙直行登山バスを利用することになる。それでも、仕事の方も何とか調整、以降2018年まで継続させた。単独調査であり2回の東俣・広河原調査以外は、基本的に自炊やテント・山小屋泊は避けた。お陰で二軒小屋ロッヂの皆さんとは親しくさせていただいた。


 こうした中で、静昆合同調査とばかりに高橋さん・諏訪さんはじめ平井・鈴木・天野・池谷さんら静昆のメンバーと、二軒小屋の山小屋で3回もご一緒したこともある。思い返すと、手ずからの食事、一緒に振るネットなど楽しく思い出される。普段離れている旧知の方々だけに、それだけで実に充実した時間であったのである。2014年には二軒小屋滞在中に、自然史博物館ネットワークのNPO法人の調査会と偶然に重なって、高橋さん・諏訪さんと夕食前のひと時を過ごした。翌日も西俣を調査されるお二人や皆さん方と、半日同道させていただいことも良き思い出である。
 前述したように、初めて南アルプス森林限界を越えたハイマツ帯でベニヒカゲを観察したのは1961年、高橋さんとの聖岳〜赤石岳の調査行であった。そして奇しくも、最後に同様のベニヒカゲを観察した時もまた高橋さんと一緒であった。諏訪さんのお誘いで、氏の友人を加えての4人で出かけた山行であった。2008年8月9日、千枚小屋(alt.2610m)で朝食を済ませ(写真3.)、千枚岳のピークを越えベニヒカゲの舞い飛ぶ場所を目指す。丸山とのコル(鞍部 alt.2840m)である。南側に実に雄大な景色が展開する。奥西河内の広く深い谷を隔てて、右奥に堂々と鎮座する赤石岳から、左方椹島の谷めがけ太い尾根が長く延びる。眺めながら、この長い長い稜線を高橋さんと二人して歩いてから、もう47年もたっているんだと感慨を覚えた。74歳になる筈の元気な高橋さんの、なんとお元気なことか。クモ膜下出血で入院の報に驚かされたのが確か2001年、再びこうして以前にも増す活躍をされている。コルの小さな草地で屈みこんで、ベニヒカゲを熱心に観察する氏を改めて見つめる自分がいた。
 高橋さんは本当に「筆まめ」であった。しかも、大層な「返信筆まめ」なのである。氏からの返信はときに葉書・ときに封書で、封書の際には論文・報文の別刷・講演のプリント・新聞記事写し等々の資料が必ず同封されていた。それを読ませていただくのも楽しみとなっていた。
 前述した二軒小屋地域の調査の頓挫のそもそもの切っかけは、リニア新幹線工事の関係からの二軒小屋ロッヂ一般営業の停止であった。重なるようにして、新コロナ・ウィルス感染症の蔓延が加わり営業停止が続いたところに、私自身の脚の不調が決定的な状態になる。二軒小屋地域調査どころかフィールド歩きが減り、更に外出までもが限られた。これによって、あれだけ意識して足を運んだ、静昆の総会・談話会なども、残念ながらすっかりご無沙汰となった。事実、静岡にも義母の葬儀・一周忌に臨んで以来、他には行けていない。
 チョウや野草など撮った写真をプリントしたポストカードに短い文を書いて、よく高橋さんへのお便りに用いたものであった。
 手元に2024年6月消印の高橋さんからのお葉書・封書は2通あり、7月28日消印(文面記載7月27日付)のお葉書がこれに続く。通信欄の末尾は「バスでミュージアムに通い、過去の未展翅標本を展翅しています。」と締めておられた。その後暫くして、この「返信筆まめ」の様子が変化する。少し時が経つと気になって、やがていささか心配な気持ちすら頭をもたげる日々に続く。
 10月末日近くに、高橋さんが入院され点滴を受けている旨の情報がもたらされた。驚いている暇もなく、智加子夫人から転院となるとのお電話を頂戴した。ご容体を少しばかりお話願った折の、凛とした語尾の響きが耳に残っている。
 「高橋真弓さんを送る会」は、僭越ながらよい会であったと思っている。厳かな中にも暖かなほほえみもある雰囲気の会場であったのである。更に一番の出色は夫人のしんがりのご挨拶のお話であった。きっと高橋さんも笑みを浮かべておられたことだろう。
 高橋真弓さんが安らかに居られることと、ご遺族が円満にお幸せにお過ごしのことをお祈りしてペンを措かせて頂きたく思います。


 山伏岳のベニヒカゲ 池谷 正(No.225-6)

 高橋先生とは2024年秋まで、ふじのくにミュージアムのバックヤードでご一緒させていただきました。
私は小学6年(1959年)の時に自宅近くの賎機山・三角点までの昆虫採集に明け暮れていました。その採集時に数人のおじさん?達からチョウの説明や同好会の話を聞き衝撃を受けたこと今でも覚えています。その中に高橋真弓先生がおられ、すぐに安東本町のお宅通いが始まり会員になりました。駿河の昆虫No.27の巻末に新入会員のコーナーがあり(1995年9月30日現在の)の名簿に私の名前が掲載されていました。
 一番の思い出は高橋先生に山伏岳のベニヒカゲ採集に連れて行ってもらったことです。1961年8月25日私は中学2年(14歳)、高校1年生の兄とS氏の4人、「梅ヶ島新田」を8:50に出発しました。高橋先生はいつものゲタ履き、私はキャラバンシューズでしたがあまり驚きもせず、初めての高山蝶・ベニヒカゲを目指し快調に歩き続けました。「最後の水場」(11:00)を過ぎ、急斜面の登りに入ると高橋先生が「100歩登って1分の立ち休憩、10本で5分の座り休憩」を指導され、中・高生3人は順調に「新窪乗越」へ辿り着きました。この登山方法の応用は私のその後の高山踏破に大いに役立ちました。「鹿ノ踊場」を経て山伏岳頂上に到着(14:25)しました。広い頂上部分にはキオンやミヤマアキノキリンソウが咲き誇り、ベニヒカゲが乱舞していました。蝶天国で20分ほど採集して大島沢を下り新田に戻ったのが17:40でした。私としては初体験の多かった採集行なので鮮明に記憶が蘇りました。
 この文章の作成は高橋先生が丁寧に記入されていた「蝶類分布調査記録用紙」よりルート、コースタイム、植物類、蝶類などのデーターを見つけたからできました。 また、高校の生物部・夏合宿地の選定時は連日先生宅を訪問、「櫛形山」か「甘利山」か多いに議論されましたが高橋先生の強い意見?で櫛形山に確定したのを覚えています。
 特に中学・高校の多感な時期にいろんな面でご指導いただき、晩年まで長きに渡りお世話になりましたことを感謝申し上げます。

 富士川から世界へ清 邦彦(No.225-7)

 高橋さんに始めて会ったのは1962年7月15日、高校1年生の時の昆虫同好会の朝霧高原での採集会でした。国鉄身延線の富士宮駅に降りられた高橋さんが下駄ばきだったのに驚いたのが第一印象でした。一行はバスで白糸の滝近くの上井出の停留所まで行き、小1時間ほど歩いた上井出林道入口で今日の採集会について高橋さんのお話がありました。
 「これから行く11番国有林はまだ調査が十分行われていません。ヒョウモンチョウが採れれば新記録です。ハヤシミドリシジミが生息していれば富士山麓南限記録です。そしてホシチャバネセセリが採れれば9年ぶりの再発見です」
 調査、発見、新記録、南限記録…、そんな言葉が次々と出てきて、わくわくして聞いていました。この日私はハヤシミドリシジミとホシチャバネセセリなどを初めて採りました。新しい蝶を採ったことよりも、新記録を出した、発見した、ということを喜んでいました。
 それまでの私は多くの種類のチョウを採ることが目的で、何種類採ったか、ということしか考えていませんでした。ノートには何種類目か数字が記入れてされてありました。別の場所で採っても、これはもう他でも採ったからと、あまり意識しませんでした。高校の生物部に入ったのも、欲しい蝶を採るにはどこに行ったらよいか情報を欲しかったからです。しかし入学早々上級生の小林國彦さんから突き付けられたのは、富士地方で増えたクロコノマチョウの侵入経路は?とか、オトメアオイはギフチョウの食草になるか?といった生物学的な課題でした。小林さんは私より一足先に高橋さんからの影響を受けていたと思われます。高橋さんがいらっしゃらなかったら私は一通りの種類を採集したところで、高校卒業か沖縄北海道に行ったあたりで、蝶から離れて、他の新しいものに興味が移っていったと思います。
 1964年2月、高校2年の冬、日本橋白木屋で開かれた日本鱗翅学会のヒマラヤの昆虫展に連れて行ってもらいました。まだ新幹線が開通する前の時代の各駅停車でした。東京駅のホームで出迎えに来た木暮翠さんを紹介されました。会場で鱗翅学会に入会しました。私にとって以後の新しい世界に繋がってゆくことになります。
 高橋さんにやっておいて欲しかったことがありました。まずは日本のミヤマシジミは大陸とは違う独立種だと考えていたはずです。私が編集していた「ちゃっきりむし」なんかじゃなく、正式な論文に書いておけば日本固有種として保全活動を後押しすることになったでしょう。また、台湾のYpthimaウラナミジャノメ属については大きな成果を上げておられました。沖縄に3種ものYpthimaの固有種のいることの重要性も含め、東アジアのYpthimaの総説も書いて欲しかったです。
 そして研究されてきたことの総まとめとして、これまでかかわってきたチョウを例に取り上げながら「種とは何か」というテーマで、サハリンから台湾までの広い意味の日本列島と大陸の蝶との関係を総括する「チョウ−富士川から東アジアへ、そして世界へ」という本を出してほしかったです。
 ふじのくに地球環境史ミュージアムで毎日のように顔を合わせながらも、この先まだまだ話す機会はあるものと、あいさつ程度で済ませていたことを悔いています。蝶のいた時代の思い出話などをゆっくりとお聞きしたかったです。
 ありがとうございました。

 橋真弓さんの想い出 斉藤洋一(No.225-8)

 橋さんの御名前を知ったのは1964年学校の生物部部室だった。当時は1959年「新昆蟲」廃刊後、1966年「昆虫と自然」が発刊されるまでの間の昆虫商業誌不毛の時代で部室に置いてあった白水先生の「日本産蝶類分布表」を手にし、食い入るように眺めた。パラパラと頁をめくり、静岡県の箇所を開くと、群を抜いて橋真弓氏の名前が多く掲載されていることに気付いた。虫や研究者に対する知識がなかったので、御名前に接して静岡にはすごい女性がいるものだと勝手に認識してしまった。何年か後、まだ会員でなかったが日本鱗翅学会関東支部の例会で橋さんの講演があるというので出席した。この時初めて故・原 聖樹氏より橋さんが男性であることを教えて頂き、身振り手振りでまた熱き口調で蝶の活動を表現する橋さんの姿を眼の当たりにして、この人は只物ではない、こんな素晴らしい虫仲間の先輩がいるんだという印象を強く感じ取った。次にお目にかかったのは神奈川昆虫談話会の小田原での例会で、ギフチョウとその食草カンアオイについての講演だった。ランヨウアオイ、フタバアオイ、カギガタカンアオイ、カントウカンアオイ等々の名前が挙がりとても有意義なひとときだった。橋さんは植物にとても詳しく、観察会でご一緒するとこの時とばかり、近くにいる我々若輩虫仲間はこれは何という植物ですかと質問責めにし、橋さんは即座に丁寧に御教示して下さるので、植物名を覚える絶好の機会となった。橋さんが静岡昆虫同好会を設立するのは1953年だがその2年前に直筆の孔版刷で処女報文となる「静岡県蝶類分布総目録」三部作を上梓されていることを著書で知った。いずれも60部から40部発行の今日ではまずお目にかかれない稀本だが、実物を何とか古書店で発見入手したいと探したところ、神田の古書店鳥海書房の古書目録で出会い、運良く入手することが出来珍蔵している。これは故朝比奈正二郎先生旧蔵本で保存状態も良かった。1987年8月23日甲州昆虫同好会の橋さんを含む有志5名で山梨県で古くから活躍されタマバエの研究者としても知られる桝田 長氏のご自宅へ伺う機会があった。その折橋さんは南アルプスで桝田氏のみの記録しかない高山蝶やその他稀種の記録のあることから、桝田氏の同定力を確認してみたいと、オオウラギンヒョウモン、ギンボシヒョウモン、ウラギンヒョウモン等の近依種の標本を持参したところ、立所にそれらを正しく同定され橋さんはニコニコしながら(桝田氏の同定力は)本物だと唸られたのも想い出の一駒である。最後にお元気な姿と接したのは2021年甲州昆虫同好会の本栖高原・北富士演習場の調査会の時だった。御高齢にもかかわらず、ご自宅から本栖高原までご自身で車を運転され参加された。そのお元気振りに圧倒され乍ら、しばらく話をする機会が持てたこと、黄色い花を咲かせ膜翅目ケアシハナバチ科数種の訪花植物であるクサレダマを教示下さったこと。北富士演習場でアカマツの下草をゆるやかに飛翔するクロシジミの雌をご一緒に観察したことを昨日のことのように思い出す。手元には1978年以降の40通を越す橋さんからの年賀状がある。それぞれが違ったチョウを取り上げ、その生態特徴をうまく表現した独特のイラストとなっていて、斑紋の一部や訪花植物に薄く彩色が施してある。それらを取り出して眺めていると、昔日の様々な書き切れなかった思い出が甦って来る。橋さん永い間のご交誼ご指導ありがとうございました。

 「勝手に孫弟子」から 中西元男(No.225-9)

 高橋真弓というお名前を初めて聞いたのはいつだったか,もう記憶がない.昆虫採集を始めたのは小学校5年の夏休みで,当時は"自由研究"でなく,"宿題"だった(そういえばこういう書き方は,"高橋 "どうし?で先に亡くなられた昭先生から「主語はだれですか?」とよく注意を受けた).
 よい指導者に恵まれぬ辺境の一匹オオカミ(はぐれ野良犬)だった筆者は,昆虫採集は採って標本にして,集めてお終い,ラベルとは,自分がその蝶を次に採るにはいつどこに行けばよいか,の心覚えとしか思っていなかった.
 そんな筆者の眼を虫屋の道に開かせてくれたのは,大学に進学し所属したサークル,生物同好会の2級先輩,小林國彦さんで,富士宮出身のこの人は真弓先生の直弟子だったから,筆者は「勝手に孫弟子」という訳だ.虫屋の道,冥府魔道に引っ張り込まれてしまっては,高橋真弓を避けては通れない.あっという間に高橋真弓まみれになって、今に至るという訳だ.
 初めてお目にかかったのは,多分一昔前静昆が初夏に開催していた,富士山麓朝霧高原の幼虫観察会だったはずだ.かつての佳かりし日々の朝霧高原には,アサマシジミやスジボソヤマキチョウ,ホシチャバネセセリなどの幼虫がいっぱいいた.照葉樹林の国,紀伊半島育ちの筆者が,生まれて初めての大草原!に驚き目を見張ったいきさつは,以前「ちゃっきりむし」に書いた.草々を指さして「これは〇〇で,あちらは××です」と教えて下さるご指導は,不精たれで大事な植物の勉強もロクにしない筆者には,またとなく有難く便利なアンチョコだった.実物を直に知るほど手っ取り早い方法はない訳で,たまに若い虫屋さんから「植物を知るのはどうしたらいいですか?」という質問には,詳しい人と一緒に歩きなさい,と答えている.間違っても自分が教えてあげる,とか言わないくらいには自覚があるのだ.
 一番記憶に残るのは,三重昆の催しで来県いただき筆者宅にお泊めした時のこと.当時熱心にNeopeを調べていらした先生は「所蔵標本をみたい」と言い出され,みんなが酒盛りしている中,標本を置いてある倉庫で一人黙々と調査をされた.筆者のNeope標本には,この時に先生が付されたナンバーラベルが今もついている.きっと残された膨大な被検標本リストに照合できるのだろう.
 倉庫から戻られた先生は「こんなに普通種が完備しているコレクションを観たのは,西田真也さんのもの以来です」と言われた.この誉め言葉は,後年鹿児島昆虫同好会大会を冷やかしに行った筆者が大会終了後の1日どう過ごすかを,鹿昆の皆さんと福田晴夫先生宅で相談した時,ちょうど本土進出中のクロホシセセリをということになり,「どこに行きますか?」「みつかっている場所のちょっと北で探しましょう」「中西さんならそういうと思った!」と言ってくださった福田先生のお言葉と共に,筆者の宝物である.
 西田真也さんのもの以来・・・初めてと言っていただけなかったのがちょっと残念なのだが,惜しくも早く亡くなられた西田さんよりずいぶん長く生きているので,今なら絶対勝ってます!

 南米コロンビアでの高橋さんの思い出 杉本 武(No.225-10)

 高橋さんと私の出会いは1965年である。当時、静岡大学山岳会が南米の未踏峰に登る計画を立て、同時に生物及び地質分野の学術調査をおこなうことになった。私は生物調査のメンバーだったが、生物にもう一枠加える許可がでて、候補者を探すことになった。私の頭にはすぐ高橋さんが浮かんだ。そこで当時高橋さんが住んでいた安東一丁目のお宅にうかがって話をすると、高橋さんは大変喜んで、即座に快諾を得た。私としては五才年上の先輩が一緒なので心強かった。その後いろいろな準備や手続きに2年を費して、いよいよ1967年5月に静岡大学コロンビア・アンデス学術調査隊として計8人の隊員が船で太平洋を渡って、コロンビア北部のサンタマルタ山群に入り、3ヶ月余り滞在して調査することになった。
 現地では高橋さんはチョウ一筋、私はチョウも採るが昆虫全般を受けもち、夜は発電機を使ってガを採集した。私が採集したチョウはすべて高橋さんに渡した。現地での調査の様子などは多すぎて語り尽せないので、高橋さんの思い出をほんの少し述べてみたい。
 高橋さんは日本から下駄を持参して、時々調査に使っていた。下駄ではやりにくかろうと私は思ったが、これは高橋さんの思い入れ、パフォーマンスなのだと思う。しかし、だいたいは黒いズック靴、白い野球帽、そして白いシャツとズボンというスタイルであった。高橋さんのチョウの採集力はすばらしく、一度ねらったチョウは捕えるまで決してあきらめない。私にはとても捕えにくいモルフォチョウなど次々に捕えていた。ドナチュイという村ではモルフォ・ロドプテロンやペレイデスなどいくつも捕えてきて私をおどろかせた。高地のピコ・ケネディ(標高2800m)で捕えたジャノメチョウの一種Sabatoga nevada という種類は、はじめは二人ともシロチョウ科の一種と思って捕えたが、その後ジャノメと知りおどろいた。また、同地では高地性のヒョウモンドクチョウ(Dione属) をたくさん採集した。夜に部屋で採集品を並べていたとき、これがカリブ海沿岸の低地で採った種類と同種か別種かということで見解が分かれた。高橋さんは同一種説、私は別種説で互いにゆずらず、大論争をしたことも今となってはなつかしい思い出である。
 また、高橋さんは音楽にも親しみピアノが上手だった。いなか町の小さなホテルに泊ったとき、ピアノがあった。高橋さんはさっそくクラシックの練習曲などを弾きはじめたら、多くの泊り客が集まってきてとても感心していた。また、サンタマルタの近くのカラバソという村で調査をしたときは、夜にガの採集をしていると、明るいのでガばかりでなく、大勢の村人が見物に集まってきた。私たちはこの機会に親善交流をしようと思い、お互いの国の歌を歌い合った。村人たちは大人、子供を含めてコロンビアの流行歌を歌い、私たちは日本の唱歌を披露した。その時、高橋さんはいろいろな歌を歌ってくれた。ちょっと藤山一郎に似た明るくさわやかな美声でみんなから拍手を浴びていたのを思い出す。まだまだ思い出は山ほどあるが紹介しきれない。
 帰国後高橋さんはこの旅の経験を活かしてチョウ一筋に研究を重ねられ、大いに成果を出され、見事な生涯を全うされた。
 高橋さん、やすらかにお眠りください。

 高橋さんの思い出 平井克男(No.225-11)

 私が静岡昆虫同好会に入会したのは1971年である。チョウをやっていた親友の北條篤史氏の強い勧めがあったからである。チョウをやっている人の多い静昆ではどうかなと、ちょっとためらいもあった記憶がある。高橋真弓さんとは私が甲虫をやっていたので直接的に接点はないことになる。調査に行ってチョウを採集したら北條氏に渡すので甲虫をしたら私にということにしていた。
 事件が起きたのは1972年6月7日である。安部奥の大谷崩を目指し甲虫調査に出かけ山伏岳の西日影沢へ向かうルートと大谷川の合流点の少し開けた草地に赤い紋をしたチョウが舞っていて1頭採集した。大谷川を扇の要の方へ行った堰堤のあたりで同じチョウが舞っていて、もう1頭を採集した。帰宅して北條氏へ渡した時の驚きの顔は忘れられない。安倍川流域で初めての高山蝶のクモマツマキチョウであった。
 その後、静岡市葵区新間川のミスジチョウ、榛原郡中川根町水川のオオミスジで甲虫屋の私が北條氏を通じてとはいえ高橋さんに強い衝撃を与えてしまったと思っています。高橋さんは、クラシック音楽が大好きで、ご自分でモーツァルト、ベートーヴェンのソナタを弾いていたことは有名であり、私もクラシック大好きで共通のお話で花を咲かせたことも多かった。
 ロシアへ木暮隊のメンバーとして、ご一緒することも多かったですが、1981年キルギス共和国の昆虫採集旅行でハバロフスクからフルンゼへ行く途中飛行機の給油で立ち寄ったイルクーツクの空港の一室で真夜中であったが高橋さんが部屋の隅にあったピアノでモーツァルトのピアノソナタK.545の第一楽章を弾いていらしたことが今だに耳と目に焼き付いています。1989年ロシアのヤクーツクの採集旅行で天候に恵まれていたある日、シジミチョウ類をまめに採集されていた高橋さんの姿が目に焼き付いている。無茶苦茶蚊の多いこのシベリア草原でコツコツとネットを振り、蚊のアタックを物ともせず、ネットからシジミチョウを取り出して三角紙に入れていたその動作は今だに忘れがたい思い出です。
 1999年7月19〜26日、ロシアハバロフスク州ゴルヌイ〜ヴィソコゴルヌイを訪れた時のエピソードを紹介したい。7月21日にゴルヌイの林道の周辺に沢が流れていて、長靴と水ダモのスタイルで水生甲虫をさがしたがあまり成果がなかった。林道の周辺にホザキナナカマドの花が満開で、チョウがとびまわっていた。一本のホザキナナカマドの花上にいたウスバキチョウ3exsとアカボシウスバ2exsを水ダモで採集、近くにいた北條篤史氏に大声をあげて進呈した。その近くを高橋さんが通りかかり、私の採集したホザキナナカマドの場所にずっとたたずみ動かない。食事を全員がすませ、バスの出発時間が来たので、高橋さんを大声で呼んで、漸くそのホザキナナカマドの場所を離れたことを思い出します。
 高橋さん安らかに
 お祈り申し上げます。

 高橋真弓さんとトンボの話 福井順治(No.225-12)

 高橋真弓さんはチョウの分類・生態・生物地理の研究で広く知られた方ですが、実はトンボとの関わりにおいては現在のトンボ愛好家でも数少ない深い体験をされていました。「虫との出会い」(1987、昆虫と自然22(11),:35)の中で、「私の虫好きを決定的にしたのは,蝶ではなくて,トンボであった。」として、三重県津市に住んでいた国民学校の1年生から2年生のころ(1941〜1942年)にトンボ捕りに熱中したことを書かれています。1999年に静岡新聞夕刊に12回連載した「窓辺」の中でも「トンボからチョウへ」の回では、同じ三重県津市でのトンボ採りの体験を書き、国民学校3年生の時に静岡市に住むようになってチョウに関心が移ったことを書かれています。しかしその後もトンボへの関心も持ち続けていて、「駿河の昆虫」には、タイリクアキアカネの静岡県初記録など多数のトンボ類の報告をされています。
 私が静岡昆虫同好会に入会したのは比較的遅く(ちゃっきりむしNo30,1977に新入会員として紹介)、新任教員として佐久間町に住んでいたころ、北遠で採集したチョウの記録をお伝えしながら手紙で入会をお願いしました。もちろん入会を歓迎するご返事をいただきましたが、この地域での初記録をいくつか含んでいたので、何度も手紙のやりとりをさせていただきました。特にベニモンカラスシジミの発見は、既知生息地から遠く離れた地域からの記録であり、学会への発表を勧められて私をご自宅に招いてノギス等を使って形態を計測して分析する手法を教えてくれました。しかし、当時の私はすでにトンボを中心に調査をしていたし、蝶類の学会にも入っていなかったので自分で報告することは思いもよらないことでした。もし高橋さんによってその計測した資料が報告されていたなら、北遠~南信の個体群は"surugaennsis"にはならなかったと思っています。
 高橋さんは大学での卒業研究ではチョウの研究をされましたが、静岡大学で在籍した当時の学部の研究室は細胞学・分子生物学・生化学などが中心で、昆虫学、分類学、生態学など自然史系の研究室はありませんでした。それでもK教授が所属を許されて別学部の先生の指導によってチョウの研究をさせてくれたそうです。実は私も別学部の生態学の研究室に出入りして、U教授の研究室に所属してトンボの研究に取り組むことを認めてもらえました。そしてK教授からは「やりたいことをやったな。」と言ってもらえました。高橋さんは私のこうした経験にも共感してされていたように思っています。
 その後、1979年に千葉県に住むベニヒカゲ研究家の木暮翠さんが企画した、ソ連(当時)のカフカズ(コーカサス)への第1次昆虫調査隊参加を高橋さんから誘われました。今にして思えば、同好会に入会して間もなかった私が誘っていただけたことは驚くべきことでした。それは高橋さんがトンボ好きであったことが大きかったかも知れません。私は「トンボ屋」としてその後何度も大陸に調査に出かける機会を得ることになり、大陸でのトンボの調査という稀有な体験者として認知される大きな基盤となりました。
 長い間本当にお世話になりました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 高橋真弓先生とボウソウヤマキマダラヒカゲ 大塚市郎(No.225-13)

 私と高橋真弓先生は1980年頃の日本鱗翅学会東京大会の会場で先輩の斉藤洋一さんから紹介され初めて言葉を交わしたと思う。既に40年以上前の出来事で記憶も定かではない。1989年に千葉県に待望の昆虫同好会が誕生し、それ以降、千葉県昆虫談話会の仲間たちと県内の昆虫相の解明に取り組んで今日に至っている。
 先生は房総半島に生息するヤマキマダラヒカゲを青山潤三氏と共に房総半島亜種(kiyosumiensis)として記載されたことは周知のことである。近年の調査で生息地である房総丘陵から分布を拡大して市原市北部から千葉市南部(緑区)で発見され話題を呼んでいる。2022年11月20日に日本蝶類科学学会バタフライフォーラムが開催され、先生の「蝶はなぜそこに棲むか」という講演があることを知った。丁度房総産のヤマキマダラヒカゲの飼育をされていた伊藤文子さん(千葉昆会員)から先生のお話を伺いたいとの希望もあり、木勢庄平さん(千葉昆代表)と3人で参加した。会場で先生に伊藤さんを紹介すると早速ヤマキマダラヒカゲの質問などをされていた。講演も興味深く拝聴しながら、懇親会や二次会へと充実した時間を過ごすことができた。2023年1月11日に千葉県立中央博物館の設立時の学芸員であり、その後、東邦大学で研究をされていた長谷川雅美教授(地理生態学・爬虫両生類学)が大学を退職するにあたり、伊藤文子さんご夫婦主催の「退職祝の会」を宮野伸也さん(元中央博学芸員で社会性ハチ類が専門)と私の5人で行った。宴会の席上、話題が博物館の設立準備の苦労話で盛り上がった時に展示されているヤマキマダラヒカゲについて、私が質問すると宮野さんから展示されている標本が高橋真弓先生採集のものであることを知った。標本の入手に苦慮している時に高橋先生に相談したところ、快く提供して頂いたと感謝されていた。常設展示の「房総の生物展示室」にあるヤマキマダラヒカゲ房総半島亜種のことである。この時、先生が千葉県立中央博物館の展示に貢献されていたことを知ったのである。静岡県に誕生した博物館「ふじのくに地球環境史ミュージアム」の設立に多大なご尽力をされ、体調を崩される前まで週に数回足を運ばれていたと聞く。80歳を過ぎられても、会誌「駿河の昆虫」誌上に積極的に発表される記録や報文などがあり、更には学会の大会や集会にも積極的に参加されている姿は頼もしくもあり、私もそうありたいと思っていた。静岡昆虫同好会の設立から今日までの歩みは高橋先生なくしては語れない。また、私のつたない報文の別刷をお渡しした際には丁寧な礼状に貴重な報文やアドバイスなどを頂戴していた。これから先も静岡昆虫同好会の益々の発展を先生が見守っているように感じる。高橋真弓先生のご指導には感謝申し上げると共に、心よりご冥福をお祈りする次第である。合掌

 高橋先生と私 斎藤伸行(No.225-14)

 高橋先生と初めてお会いしたのは2000年代に入ってからである。私が環境調査のようなことのお手伝いを少しの間していた時に昆虫班の顧問をされていたのが高橋先生であった。当時の私は蝶に特別な関心を持っていた訳でも無く、昆虫についても特に知識がある訳でも無かったが、その環境の仕事が終了した後も採集調査にたびたび声をかけてくださり、以来四半世紀近くにわたって先生と様々な蝶を季節に応じて追いかける機会に恵まれるようになった。
 冬にはオオムラサキの越冬幼虫の調査、春はスギタニやウスバシロチョウ、夏になればオオミスジや草原性蝶類、秋季にはミヤマシジミやクロツバメシジミなどの多化性の蝶類を追いかけることが一年を通した調査のだいたいの流れであった。途中からこれらにキマダラモドキやクマソなどが追加された。
 現地に向かう車中では、山々を指差しながら山名や標高を正確におっしゃり、いつ何を採ったか、その時の採集状況などを説明されることがしばしばであった。そして最後に「標本はあります」という言葉も忘れなかった。
 高橋先生の記憶力の明晰さはどなたもが納得される能力のひとつだと思われるが、私もその秘訣について何度か訊ねたことがある。よくおっしゃっていたのは何度も標本を観ること何度も忘れることを挙げておられた。標本を見返すことで当時の採集状況が思い出され、忘れたら調べ直すことで記憶が強化される、それだけですという返答であった。
 標本に対する強いこだわりは常々言及されていたことであり、最後に先生と野外に出かけた昨年の7月28日の富士山北麓においても「私は標本にこだわります」と明確におっしゃっていた。
 そのほか繰り返し語っていたことは、「野外に出ることですよ」、「問題意識を持って採集すること」、「ひとつのことを10年続けていればある程度のことは分かってきます」、「屁理屈でもいいから理屈をつけること」、「書くことは飛躍です」、「人間関係はしつこいと問題ですけど調査はしつこい方がいいですよ」。高橋先生とは教師と生徒あるいは師匠と弟子のような関係であったが、共に学びましょうという同好の士として同じ目線に立つ態度を常に崩されなかった。
 先生には感謝しかない。大変貴重な時間を共有させていただきました。ありがとうございました。

 高橋さんとの想い出 枝 恵太郎(No.225-15)

 私は就職で静岡に来てから本格的に昆虫に携わるようになり、ほどなく静岡昆虫同好会に入会、例会にも毎回参加するようになりました。自宅も市内の中心部に近かったこともあり、会誌「駿河の昆虫」の発送のお手伝いもするようになってからは、高橋さんのご自宅に出入りするようになりました。会誌発送は、幹事の方が集まり蝶の話をしながら封緘封入と住所ラベル貼付作業をして、2時間ほどで解散になるようなルーチンでした。ある時、何故か高橋さんと私の二人のみで会誌発送することになり、これはなかなか終わりが見えないぞと黙々と封入しては糊付の繰り返しをしていたのですが、途中から高橋さんはリズムをとるためか、「糊は少しで大丈夫」(というような意味でテンポが取りやすい言葉だったと思う)と歌うようにずっと作業していたことを覚えています。高橋さんのお宅に電話をするときは、NHKラジオ講座の時間とピアノを弾いている時間を外した方が良いということをいつの間にか学び、そしてお電話をいただく時間もおよそ決まった時間ということが多く、良い意味で自分に課したルーチンワークが得意な方という印象がありました。
 また、私の親しい虫友だったFさんから、御蔵島へ行く船上で高橋さんと一緒になったことがあると、何度か聞いたことがあります。その時何かの拍子で、Fさんが高橋さんの竹竿を踏んで割ってしまったということ。Fさんは一般の方から見ればやや体重がある方だったので、どうも一撃だったようです。その時の高橋さんの悲しそうな顔は忘れられないと、何度も私に高橋さんに謝っておいてくれと言うのです。残念ながらFさんは数年前に60歳目前で亡くなってしまいましたが、その時のエピソードは高橋さんに伝えたら覚えていて(当たり前だとは思いますが)、「そんなこともありましたね」とほほ笑んでおりました。今頃Fさんは高橋さんに会って、その時のことを謝っているに違いないと思います。
 高橋さんからは多くのことをお聞きし、教えていただきました。特に日本鱗翅学会会長在職期間中は、同じ静岡在住ということで私は会長付のような幹事となり、学会大会の往復の際はよく行動を共にさせていただきました。日本鱗翅学会のある大会時に、ホテルから会場まで車で向かうことになったのですが、途中道に迷ってしまい、高橋会長含めて理事幹事が会議に遅刻するということがありました。それでも高橋さんは、動ずることもなく、誰を責めることもなくゆったり構えておりました。高橋さんは何事にも自然体なんだなと思いました。その後も学会大会の往復の新幹線の中では、先人の蝶蛾類研究者(江崎悌三博士、磐瀬太郎、日浦勇、杉?郎さんなど)のことや、1967年の南米コロンビア調査の様子、高橋さんが発見されたジャノメチョウ類のことや種の概念の話など多岐にわたることを教えていただきました。私も「真弓チルドレン」の端くれとして、この「真弓イズム」を次世代の若い方へ師資相承していきたいと考えています。


静岡で開催された日本鱗翅学会自然保護セミナー     日本鱗翅学会鹿児大会(2014年10月)
(静岡昆虫同好会と共催:2003年8月)         元会長 (高橋真弓・岸田泰則氏)の二人と一緒に


 アヤンを目指して 中谷貴壽(No.225-16)

 高橋さんと初めて海外旅行に同行させていただいたのは、2006年のシベリア北部ウスチ・ネラが最初である。この時はタカネヒカゲ属の珍種Oeneis actaeoidesをはじめ多くのタカネヒカゲ類が採集でき、黒っぽいタイプや明るい褐色タイプ、雄性標の有無、棲息環境の違いなど、ダイセツタカネヒカゲの他にも1、2種が混じているのではないかと期待したのに、ゲニタリアにも遺伝子情報にも種を分けるような差異が見出せず、北方産蝶類の魅力にすっかり引き込まれてしまった。以後毎年のようにシベリアやキルギス、モンゴル、中国などへ同行させていただき、チュコト半島へもう一度行きましょうと言いながら、コロナ禍で果たせずに高橋さんの訃報に接することになり残念でならない。
 ここではシベリア沿海部のアヤンを目指しながら果たせなかった代わりに、図らずもフレッチャーベニヒカゲの新たな地理的変異を発見した2009年の旅行を振り返って、高橋さんを偲ぶよすがとしたい。
 この年はハバロフスク郷土博物館のノボモドニィさんの提案もあって、アヤンからジュグジュル山脈を越えたネリカンを目指す計画で2週間の日程を確保していた。勢い込んで早朝からコムソモリスク・ナ・アムーレ(以下コムソと略)空港に出かけたら、アヤンの天気が悪くて出発時刻の遅延を何度か繰り返して結局欠航になってしまった。初日はコムソ周辺での採集や、夜にはホテルでロシア人宿泊客との交歓会があり、余裕で楽しんでいたのだが、欠航が二日も続くと焦りの気持ちが湧いてくる。さすがに三日目になるとアヤンまで出かけても採集日数が充分取れないばかりか、帰りの航空便が欠航を繰り返すようだと帰国が危ぶまれる事態になりかねない。相談の結果アヤンは諦めて、コムソ周辺での採集に変更し、以降は現地旅行社のミハイルの自宅に宿泊させてもらうことになった。湿りがちな雰囲気の中に、突然ピアノの穏やかな旋律が流れ始めた。高橋さんが部屋にあったピアノを弾いておられるのだった。いつもチョウや生物地理的なお話しかしたことがなく、高橋さんの思いがけない多彩な一面に触れた思いであった。
 毎日、日帰りでアムール河河岸段丘の崖地やフルムリ川上流のミャオチャン山地などで探索を続けたが、蝶相が限られて新たな行き先に窮するようになってきた。そして7月2日の最後に訪れたフルムリ川上流で、解放されていた車止めゲートを過ぎてさらに上流部へ車を乗り入れたところ、18時を過ぎてそろそろ薄暗くなりかけた頃に前方から黒っぽいチョウが数頭飛び立った。慌てて車を止め、全員で合計5雄1雌のフレッチャーベニヒカゲを採集した。このような時刻にまだ路上に止まり、さらに交尾中のペアがいたのには驚いた。二日後の4日にはもう少し数を稼ぐべく朝一番で再訪し午後まで粘り、さらに5日にも訪れたがフレッチャーベニは一頭も目撃できずに終わったのは全く意外で、高橋さんと黄昏活動性でもあるのだろうかと話し合ったほどである。
 帰国後に調べたところ、既知のどこの個体群よりも大型で、翅表には発達した鮮やかな赤褐色帯を持つことなどから「壮麗な」という意味のmagnificaを新亜種名として、高橋さんが連名で記載してくださった。ホロタイプ雄は高橋さんが、パラタイプのうち唯一の雌は私が保管しているが、今回静岡昆虫同好会のご知友のお取り計らいで、ふじのくに地球環境史ミュージアムのご理解を頂き、両者が揃って同博物館に収まることになったのは嬉しい限りで、まずは高橋さんのご霊前にご報告とさせていただきたい。
ラダフリェプ氏宅でピアノを弾く高橋さん

 高橋先生ありがとうございました 宮尾真矢(No.225-17)

 「ギュンツ氷期、ミンデル氷期、リス氷期、そしてヴュルム氷期――」壇上のホワイトボードに描かれてゆくのは日本列島及びその周辺の地形である。それらの海岸線は説明とリンクしながら、拡縮を繰り返してゆく。研修室の静寂を切り裂くバリトンボイスが心地よく、また、ハンチング帽がよく似合う評判通りのそのお姿に安心感を覚える――
 私が高橋真弓先生に初めてお目に掛かれることができたのは、富士山自然誌研究会の総会に参加した時のことでした。先生のご講演が終わり、ご挨拶させていただいた際に、「ご活躍を拝見していますよ。頼もしく感じております」と暖かいお言葉を頂戴したことを強く覚えています。その後も先生からは激励のお手紙やお電話を頂戴するなどして、しばらくの間は自己肯定感が右肩上がりの日々を過ごすことになりました。しかしながら、この数年は自身の生活環境の変化(育児など)に伴い,地元である富士山南麓地域の調査時間すらも十分に捻出できなくなってしまっていました。それでも、そのうちには、いずれ地元のフィールドでご一緒させていただけることだろうと信じていました。先生はご年齢を感じさせない程にお元気だという印象があまりにも強かったので、突然の訃報に接した昨年末のあの日、その状況を理解するのにはかなりの時間を要したことは言うまでもありません。先生との思い出は勿論のこと、やり取りした書類の数々についても大切な宝物となっていますが、未だ整理がつかない地元の甲虫相はじめまだまだご意見を賜りたかったことが沢山ありました。
 高橋先生、もう二度とお会いできないのは本当に寂しいですが、本当にありがとうございました。先生のご創設された静岡昆虫同好会の会員であることを誇りに思いつつ、今後も微力ながら『地方の自然にしっかりと根をおろし』、『分布や生態についての正確な資料を着実に集積していく』という先生の強いご意志を次世代に紡いでゆけたらと感じています。厳しい環境の分布調査でめげそうな時はお叱りください。時に閃きとヒントをお与えください。先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。

 台湾の離島 馬祖島のムモンウラナミジャノメ 城内穂積(No.225-18)

 コロナ禍の中、2020年2月25日付けで海外渡航が規制された。これにより海外での調査計画は立てられなくなり、高橋真弓先生との遠征も絶たれてしまったことが心残 りであった。
 私が初めて海外に出たのは1983年、その後1986年の木暮翠先生企画のロシア調査遠征を皮切りとして多くの国へ赴いてきた。振り返れば、ロシア本国とサハリン、ラオス、モンゴル、台湾、韓国、中国、インドネシア、ベトナム、ミャンマーなどに、捕虫網を携えて出かけたことになる。ただ、2015年9月から2年間赴任した中国新疆ウイグル自治区では、仕事の合間を縫って昆虫・植物採集を目論んだものの、日常生活の監視が厳しくて叶わず、マラソン参加を口実に出かけたウルムチ南部タクラマカン砂漠近くでも、短時間しか網を振ることはできなかった。
 高橋先生に同行したのはロシア以外に12回と記録に残っている。中国北京東霊山に1回、韓国春川に久門亨さんの案内と通訳つきで1回、済州島と釜山に2回、台湾本土と馬祖島に8回である。8回の内4回は長谷川治さんの案内と通訳付きだった。馬祖島のYpthima調査は高橋匡司さんと森田東さんの協力を得て行われ、日本人初でもあり有意義だったが、ムモンウラナミジャノメの分布記録の確認ができないまま終わったことが、今となっては残念至極である。
 台湾行きは国立台湾師範大学の徐?峰先生からのお招きで、台北近くの離島、亀山島から見つかったという新種カメヤマウラナミジャノメの見聞に行ったことから始まった。急に決まった話で全日程は参加できず、半分の3泊4日で台北から台東までの広い範囲に生息するYpthimaの種類を見て回った。結局、花蓮駅から汽車で台北空港経由で帰国した。
 馬祖島の調査は、李俊延氏が兵役で馬祖島に滞在していた時に記したムモンウラナミジャノメ採集記録を、高橋先生が文献上で見つけて、果たして今でも同じように分布しているのだろうかと疑問を持たれたことからスタートした。台湾には数種のYpthimaがいることは知られていたが、いつでも採集できるものではなく、棲息場所の標高差もあってなかなか骨の折れる仕事であった。
 手始めは台湾南部で、白井和伸さんとで六亀在住の昆虫案内人、陳文龍さんを頼った。陳さんは日本鱗翅学会会員でもあり、日本が台湾を統治していた時に日本語教育を受けていたので採集案内人としては極めて好都合だった。調査の途中、新種のタカオウラナミジヤノメの発見があったが(2008年「蝶と蛾」に発表)、高橋先生はさして大騒ぎもせずYpthimaの全体像を掴む調査をしておられた。こうした取り組み方には大人と小人の大きな差を感じざるを得なかった。ともかく歩いて数を稼いで全体を見渡す視野の広さと考察の鋭さは、かねてから論考していた蝶の地理学を極める基本姿勢と思い知らされた。採集の頭数より種類数、採集場所の環境の違いをたいへん問題視しておられた。このようにして台北から台中、台南まで踏査したあと、中国福建省の目前の離島、馬祖島に入ったのである。
 馬祖島にムモンウラナミジャノメがいるかいないかだけでなく、Ypthimaの台湾における全体像を今一度調べ直す意義をしっかりと教えていただいたことに感謝申し上げたい。馬祖島といわれる馬祖列島は、南竿島、北竿島、東?島、西?島、東引島、亮島、高登島、大?島、小?島、及びその他の小島からなっており、簡単に行き来できるのは北竿と南竿の島だけで他の島には定期的な移動手段がないため、今も採集調査はなされていない。残された私たちの世代で残る離島を調査して、先生の墓前に報告できるようにしたいと考えている。合掌
1 台湾馬祖島空港にて(高橋真弓、高橋匡司)


2 台湾南投縣埔里 錦吉昆蟲館にて(森田東、羅錦吉、高橋真弓、高橋匡司)


3 台湾鳩の沢渓谷にて(城内穂積、高橋真弓、高橋匡司)

 高橋真弓先生、ありがとうございました 森田 東(No.225-19)

 先生に同行した最後は、2024年7月9日、10日の京浜昆虫同好会OB会。毎年催される京浜OB会に、はじめは宮内和雄さんに連れられ、その後は高橋真弓さんに連れられ参加していた。最近は山梨県の「ペンションすずらん」で催されることが多く、2024年も「すずらん」で開催されたが、高橋先生は例年になく元気がなかった。採集に出かけることも少なく、部屋のソファーで眠る姿が印象的であった。
 帰路、車中で、「森田君、天城のフジミドリシジミの姿をもう一度見たいなあ、それに伊豆半島のイシガケチョウも見てみたい。」
「天城は林道が荒れていて無理ですが、イシガケチョウなら大丈夫です。9月に連絡しますので伊豆に来てください。」 しかし、私の腰の調子が悪く、入院や手術のための検査や手続きで病院に通うことが多く、結局先生に連絡を取ることができなかった。なんとも、心残りである‥…
 先生を知ったのは一冊の本、『チョウ 富士川から日本列島へ』。実際にお会いしたのは宮内和雄さんを通してである。私が虫の世界に足を踏み入れたのは遅く、50歳を過ぎたころ。大昔に地元の伊豆新聞に『お茶の間博物誌』というちょっとしたエッセイを連載していた宮内さんの、夕刻に温泉につかりながらウラナミアカシジミの飛翔姿を楽しむ至福の時を語る文章が忘れられず、蝶の世界の案内を求めて宮内邸を訪ねた。『白水隆アルバム』を見ながら、白水先生、林慶先生、高橋真弓さん、大島良美さん、牧林功さんのことが話題にのぼった。林慶先生のお宅に出入りしていたとき「静岡にすごい青年がいる、高橋真弓君」と、林慶先生が高橋さんを褒めていたこと、林慶門下生の秀才である大島良美さんのこと、などなど。実は、今となっては笑い話だが宮内邸を訪ねたとき、私は高橋真弓さんに一度『お亡くなり』になってもらっている。私は『チョウ 富士川から日本列島へ』を読んでいたので、高橋真弓さんに引き合わせて欲しいという意味で、何度か「会いたいなあ」を連発していた。しかし、宮内さんは「もう亡くなっているよ」と答えるばかり。このとき宮内さんは白水先生のことを言っていたのだが、私は高橋真弓さんのことを話していたので、てっきり高橋さんは亡くなってしまったと思ってしまった。後に自然観察指導員をしている知人に、高橋さんが亡くなったことを話すと、その知人は「何言ってるの、高橋さんはピンピンしているよ」と笑い飛ばされた。後日、宮内和雄さんを通して高橋真弓さんに会うことができて静岡昆虫同好会に入会した。
 年齢を重ねてから虫の世界に入ったので高橋先生を知る期間は二十年にも満たないが、さまざまなことを教わった。採集したチョウを三角紙にどう入れるか、こんな初歩的なことを60歳になって高橋先生から直接教わったのは私だけだろう--高橋先生は、地面で吸水しているフタスジチョウの背後にそっと立ち、ネットの底の端を持ち吸水が終わるのをじっと待つ、ひたすら待つ、やがて吸水が終わりフタスジチョウはフワっと飛び立つ、その瞬間、静かにネットが振り下ろされフタスジチョウはネットに吸い込まれた。先生は採集したフタスジチョウの腹部をしごきながら「タテハチョウの仲間はよくお漏らしをするから三角紙に入れる前にこうやって腹部をしごいて水を出してあげる、それから触角をそろえて前翅の前縁が三角紙の折り目のところにくるように翅をそろえて三角紙に入れる。」
 富士山周辺でのスギタニルリシジミ、ウスバシロチョウ、富士川流域のオオムラサキ越冬幼虫、伊豆のアカボシゴマダラ、ウラナミジャノメ、ウラナミアカシジミ、天城のフジミドリシジミ調査など、同行させていただいたときのことは昨日のことのように思い出されるが、なかでも台湾への2回の調査行は忘れがたい。採集した蝶種をたずねるといつも即答。採集地をあまり動かないのにいつの間にか採集した蝶の種数は高橋先生が一番多かった。採集したその夜には必ずベッドに陣取って採集した蝶を広げ採集地と日付を入れて整理を済まされていた。
 2024年の京浜OB会に向かう車中でのこと--「タイワンウラナミジャノメと日本のウラナミジャノメの触角先端の形状は異なっているね」と微笑まれた。「自分で調べたことは、発表しなければいけない。問題を提起する意味でも。反論はあってあたりまえ。」これは、2023年に蝶類科学学会のButterfly Scienceにウラナミジャノメの触角先端の形状について高橋先生と共著で出した論文を指しての発言。私の調べたウラナミジャノメ各種の触角先端形状について高橋先生に相談したとき、「蝶類科学学会に出そう、私は会員だから森田君が会員でなくても共著で出せるよ」と、内容についても一緒に考えてくれ論文提出の準備をしていただいた。先生にとって最後となる論文に名前を連ねさせていただいたことは光栄であり、感謝に堪えません。
 先生、本当にありがとうございました、静かにお休みください。

 ちゃっきりむし No.226 (2024年9月)

 2025年韓国訪問記 枝 恵太郎未公開