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<Web ちゃっきりむし 2017年 No.191-194>

● 目 次
 松田陽二:インドで蝶を追う(2)(No.191)
 鈴木英文:峠のチョウシロー(No.192-1)
 清 邦彦:「本物を標本にするんですか?」(No.192-2)
 橋真弓 シリーズ 昆虫のいた時代@「賎機山の昔と今」(No.193)
 諏訪哲夫 シリーズ 昆虫のいた時代A「朝霧高原・麓」(No.194)

 ちゃっきりむし No.191 (2017年3月)

 インドで蝶を追う(2) 松田陽二

(3)アンダマン&ニコバル諸島  
 インド本土から約1800q南東に浮かぶ島々。ニコバル諸島は旅行者に開放されていないが、アンダマン諸島は限られた範囲で旅行することができる。South Andaman、Middle Andaman、North Andaman及び近隣の島を合わせると沖縄本島の約5倍の面積がある。固有種が多く、代表的なものとしては、Papilio mayo、Graphium epaminondas、Euthalia acontius、Losaria rhodifer、Euploea andamanensisなどが有名。蒸し暑い気候や、港からボートで島々を移動する様子は八重山諸島を思い出す。時間をかけて探索してみたい場所である。
(4)北東諸州地域
 インド地図で東側に出っ張ったアッサム州、ナガランド州、マニプール州、メガラヤ州、トリプラ州、ミゾラム州、アルナチャルプラデシュ州を含むエリアの総称である。筆者がインドに暮らしていた頃はテロや暴動が多く、入域制限も厳しく、一度も行くことがなかった。だが、ここ数年、開放が進んでいる。
 明確な数字は手元に無いのだが、蝶の種類は多く密度も高い。アッサムを除くと多くの地域で余り宿泊施設が整っておらず、キャンプや民泊が基本。日本との共通種も少なくなく、Papilio elephenor再発見がインドで報道された時、ゴイシツバメシジミも一緒に報告され(Kushal,2010)、私はそちらの方に目を奪われた。他にも、スミナガシ、アオバセセリなど、馴染みある渋めの蝶を見ると嬉しくなる。
 また、アルナチャルプラデシュ州にはシボリアゲハ(Bhutanitis ludlowi) 及びブータンシボリアゲハ(Bhutanitis lidderdalii)の2種類のBhutanitis属を産し、それらは混棲している地域もある。(松田, 2014)
 以上のように、いろいろと問題や障害はあるのだが、インドには美しい自然が残されており、魅力的な場所が多い。資金と体力の続く限り通いたいと考えている。

[参考文献]
1.Kunte,K(2000)INDIA-A Lifescape:Butterflies of Peninsular India:91-92
2.反町康司(2000) 入門編 コリアス図鑑:72‐73
3.Anand Padhye,Sheetal Shelke,Neelesh Dahanukar(2012) Distribution of butterfly species in the Westerb Ghats,India. Check List8(6):1196-1215
4.Kushal Choudhury(2010)Rediscovery of two rare butterflies Papilio elephenor Doubleday,1845 and Shijimia moorei Leech,1889 from proposed Ripu-Chirang Wildlife Sanctuary, Assam, India, Journal of Threatened Taxa:2(4):831-834
5. 松田陽二(2014), インド北東部Arunachal Pradesh州におけるBhutanitis属, 日本蝶類学会 2014年度大会講演要旨集:11
(本文中の写真は全て筆者撮影)

 ちゃっきりむし No.192-1 (2017年6月)

 峠のチョウシロー  鈴木英文

 チョウセンシロチョウを最初に見たのは1979年、木暮調査隊の一員として参加したソ連カフカズ調査のときだった。乗っていたバスがピアチゴルスク郊外で、対向車が跳ね上げた石がバスのフロントガラスを壊し、停車した時、道路の脇の草原を飛んでいた白い蝶が目の前にとまった。当時は事故現場でネットをふるなどという図々しさを持ち合わせていなかった私は、その蝶の後翅裏面の唐草模様がクモマツマキの様で感激し、あれを採りたかったと悔やんだ覚えがある。もっとも翌日には採集できたのだが。その後キルギス、バイカル、沿海州やトルコなどの調査に行くと、大量に採れることはないが、採集品の中に必ず入っている普通種ということがわかってきた。成虫だけでなく幼虫や蛹も見つけたことがある。

 昨年4月ラオス調査の時、ラオス北西部のミャンマーとの国境近くで、田植え前の干上がった田圃の脇の草にとまっている蝶を何気なく見たときは驚いた。こんなところにチョウセンシロが?とんでもないものを見た気がしたが、すぐラオス蝶類図譜に図版があったことを思い出し、採集した。気温も35度を超えていたと思われる。同行者全員で十数頭が採集された。ガイドのカンブンさんに見せると、「自分も一度だけ採集したことがあるが、いい蝶だ」と喜んでくれた。なんとなく違和感を覚えたが、その時はそのまま忘れていた。

 6月末からはモンゴル西部のホブド県へ出かけた。標高2000mほどの峠を越えた時、風に乗って高速で飛びすぎる白い蝶を採集するとみなチョウセンシロだった。3000mを超える乾燥した草地でも活発に飛び回っている。何かと思って慌てて採集してもチョウセンシロでがっかりすることが続き、ついに仲間内では「超普通種のチョウセンシロ」略して「チョウシロー」と呼ばれるようになった。

 そこでやっとラオスでの違和感の原因がわかった。チョウシローは今まで何度も見てきたように、本来乾燥した草原の蝶だった。
 ボザーノ(G.C.Bozano)の旧北区の蝶ガイド(Guide to the Butterflies of the Palearctic Region)を見ると(ボザーノはP.daplidice-edusa complexとしている)分布は北緯30度以北で、地中海沿岸、トルコ、中央アジア、モンゴルから沿海州まで分布している、ユーラシア大陸の中緯度地域以北を中心に、乾燥した地域に適応した種であろう。言いかえれば「小麦畑作地域&遊牧地域」の蝶と言うことができる。それがこともあろうにラオスでは「稲作水田地域」に侵入している、しかも採集したのは北緯21度付近と本来の分布域からは大幅に南下していることになる。日本でも以前北海道などで一時発生したことがあるが、すぐに絶えてしまった。北海道全域に分布を広げたオオモンシロチョウに比べて、より乾燥地域の蝶なのだろう。それが高温多湿なラオスの水田地域である。蝶がその生息域を広げる要因はいろいろあるだろうが、チョウシローはラオス北部で定着できるのか、乾燥地域から高温多湿な地域へ適応しつつあるのだろうか、生息域を広げるための一つの峠を越えようとしているのだろうか。

 ちゃっきりむし No.192-2 (2017年6月)

 「本物を標本にするんですか?」  清 邦彦

 昨年春オープンした静岡県立「ふじのくに地球環境史ミュージアム」、バックヤードで行っている標本の製作・整理作業を来館者が見ることができる「ミドルヤード」と呼ばれる部屋があって、昆虫採集用具や展翅展足中の標本、興味を引きそうな昆虫標本なども並べられている。ここに居ると来館者が昆虫標本に対してどんな感覚を持っているかわかってこちらとしても勉強になる。
「これ、本物ですか?」
 昆虫に限らず、ミュージアムの展示室どこでもこの質問が一番多い。時には、ケージの中で飛んでいるチョウにまで「これ、本物?」と聞く子どももいる。考えてみれば今の世の中で接するものは間接的な画像や仮想世界のものばかり。これは深い問題だと思う。
「本物を標本にするんですか?」
「本物でないのは標本じゃなくて模型です。模型では博物館になりません」
 などと答えているが…。
 昆虫標本というと、体に針を刺す、あるいは注射をする、というイメージが強い。昆虫に針を刺して張り付ければ標本、ということらしい。展翅板上にたくさんの留め針で固定された蝶を見て
「おっ、針ぶっ刺してるじゃん!」
 と、声を上げる。
「ラベルを付けたのが標本です。針はラベルを付けるのにも都合がいいのです」
 ただし、虫を殺すこと、死んだ虫であっても針を刺すことへの嫌悪感はあるので説明には気を付けなければならない。
 《どれがチョウでどれがガでしょう》といった展示をしているからだろうが、チョウとガの違いもよく聞かれる。チョウは触角の先がふくらんでいるのが多いけど例外もある、チョウはガの一部であって、静岡県と日本はどう違うか、というようなものですよ、などと説明しても釈然としない顔をされる。フランスやドイツではみんな『チョウ』です。昼のチョウ、夜のチョウと呼び分けたりするようですが、などと言ったら
「じゃあ、フランスでは銀座の夜のチョウは何というの」
 と言われて、真面目に説明するのが嫌になった。
 チョウのはねの模様がオスとメスで違いがあることはわかっても、表と裏で違うことを知らなかった、という人も少なくない。実際、世間では表も裏も同じ模様のチョウのイラストをよく目にする。チョウははねを立てて止まると裏側しか見えないので、裏は天敵から隠れるために目立たない色、表は仲間にアピールする目立つ色をしていると言うと納得してもらえる。でもそれに続く質問には答えられなかった。
「表と裏では模様が違うのに、どうして右と左は同じなのですか?」
「………」
4月の初め、飼育していたギフチョウが次々と羽化してきた。
「かわいい!アゲハチョウの赤ちゃんが"ふ化"してる。これから大きくなるんですね?」
 いずれにしろこうして昆虫に関心を持っていただければありがたいと思っている。問題なのは昆虫の部屋に入ろうとしない人、あるいはミュージアムに足を運ぼうとしない人たちだと思う。生徒たちだけ部屋に入らせて自分は入れない先生もいる。「ナニコレ!気持ち悪い!かわいそう!」などと騒ぎながら入ってきた子どもたちも、しばらく相手をしているうちにだんだん興味を示してくる。まずはそこからだろう。

 ちゃっきりむし No.193 (2017年9月)

 シリーズ 昆虫のいた時代@「賎機山の昔と今」  橋 真弓

1.賎機山と私の少年時代
 賎機山(しずはたやま)丘陵は静岡市葵区を北から南に流れる安倍川に沿って南北に連なる丘陵である。
 今から60余年前、私が少年時代に蝶の採集・観察に親しんだところはその丘陵の南の部分で、南端の浅間神社から戦災慰霊碑のある三角点〈140m〉を経て、その北方の峰に当たる賎機城址〈184m〉にいたる尾根筋であった。
 大戦のさなか、1943年に三重県津市から国民学校3年生で静岡市に転居した私は、唯一の"虫採り場"となったこの賎機山に足しげく通った。
 その2年後の6月19〜20日の"静岡大空襲"を経て、富士郡上野村(現富士宮市)に疎開し、そこで終戦を迎えて地元に帰ったが、新制中学校(静岡大学付属静岡中学校)に入学した1947年ごろまで、仮校舎への遠距離通学や極度の食糧不足などで疲労が重なり、約2年間ぐらいは蝶の採集どころではなかった。
 しかし、中学2年生となった1948年、諸事情が好転して、賎機山への情熱は以前にも増して燃え上がった。
 春から秋にかけて、休日は言うに及ばず、学校から帰宅すると、私は連日のように賎機山に出かけたものであった。
 家から10分余で浅間神社に着き、"百段"と呼ばれた石段を登り、三角点まで、ときには賎機城址まで往復することもあった。また賎機城址へは山麓の臨済寺から往復することもできた。

2.当時の賎機山の景観
 戦後から約10年ぐらいにわたって、照葉樹林に被われた浅間神社や臨済寺などの周辺を除き、その大部分がよく手入れされたミカン畑と茶畑によって占められていた。
 賎機山三角点〈140m〉には戦時中には旧日本帝国陸軍の高射砲陣地があって立入り禁止となっていたが、戦後解放され、周囲は広い芝地で、静岡平野や安倍川、そして遠くには駿河湾、伊豆半島、さらに富士山や南アルプスまで眺められた名展望台となっていた。
 尾根道の両側はミカン畑と茶畑で、道沿いにカラタチやイヌマキなどの生け垣が続いていた。そして処どころにオカトラノオやノアザミの咲く草刈り地も見ることができた。
 北方の賎機城址に近づくとコナラを主とする雑木林が現れ、通称"地獄坂"を越えて短い急斜面を登ると、平らな台地となりそのまま賎機城址に続いた。茶畑に沿ったクロマツの林では5月ごろにぎやかなハルゼミの声が聞かれた。
 賎機城址は照葉樹林に被われていたが、その脇を通る尾根道の西側斜面は丈の低い雑木林となっていた。

3.当時の賎機山に見られた蝶類
 これらの蝶類のいくつかは、すでに「静岡市賎機山の蝶類資料」として駿河の昆虫(39):1076,1082で紹介したのでそれを参照されたい。以下に挙げた蝶類については、ミヤマセセリを除いて標本が実在し、これらはいずれも"ふじのくに地球環境史ミュージアム"に保存されている。
 つぎに季節を追ってこれらの蝶類の生息状況を述べる。
 4月上旬、ミヤマセセリが"地獄坂"から賎機城址にかけての雑木林周辺に現れ、タチツボスミレの花を訪れるのを観察している。
 1953年4月2日、臨済寺上の山腹でコツバメ1♀を採集、賎機山唯一の記録となった。
 5月後半には"地獄坂"から賎機城址にかけてクモガタヒョウモンが現れ、1948年5月19日にはウツギの花を訪れた1♂を、さらに同23日にも1♀を採集している。
 6月に入って、賎機城址付近では、1948年6月6日の朝、賎機城址西側の低木林上でヒカゲチョウを追飛していたオオミドリシジミ1♂を採集。これも賎機山唯一の記録となる。
 ミドリヒョウモンも確実に定着し、1948年6月9日、"地獄坂"北方の草地で1♂、さらに同日の夕方、三角点南方のソメイヨシノの樹幹に下向きに止まり、翅を開閉しながら下方に歩行する1♀を採集している。
 当時はメスグロヒョウモンも生息し、1948年6月4日、賎機城址付近でウツギの花を訪れた1♀、1949年6月11日に"地獄坂"北方の草地でオカトラノオの花上で交尾中の1つがいを、1950年6月5日に同地で1♂を採集している。
 7月に入るとホソバセセリが見られ、1949年7月16日と25日に記録され、1949年7月5日にはオオチャバネセセリが採集され、後者はさらに1950年にかけて数例の記録がある。
 9月上旬の夕方は三角点北側の低木上で毎年のようにスミナガシの占有飛翔が見られた。

4.その後の賎機山
 1950年静岡城内高校に進学してから、私は賎機山を離れて、安倍川や支流の藁科川流域、竜爪山、浜石岳などへと行動範囲を少しずつ広げていった。その間の賎機山の自然環境もしだいに移り変わっていったものとみられる。
 それから5年も経って、静岡県下でクロコノマチョウが大発生し、麓の臨済寺裏山でもシイ・アラカシ樹林の中にその後毎年のように見ることができた。
 かつて芝生状だった三角点の周囲にもエノキなどの樹木が成長し、その南側の尾根では植栽されたソメイヨシノが高木となり、4月初めの浅間神社廿日会祭(静岡祭り)の頃見事な花を咲かせるようになった。
 近年賎機山では農業の衰退から茶畑やミカン畑が放置されて荒廃し、蝶を呼び寄せる草花の咲く草刈り地も失われた。荒廃したモウソウチク林が広がり、かつての耕作地は大きく変ぼうした。シイ・アラカシ・タブノキなどを主とした照葉樹林が急速に繁茂し、蝶の活動する空間も乏しくなった。そして、以前にあれほど見られたサトキマダラヒカゲはほとんど姿を消し、目につくものは樹陰性のコジャノメばかりとなった。
 今日、蝶の活動の場となっているのは三角点付近のみで、ここには2000年ごろから静岡市あたりにも定着した南方の蝶ナガサキアゲハが飛翔し、周囲の高木の梢の上をアオスジアゲハ、キアゲハ、ゴマダラチョウなどが飛び回っている。そして外来種とされるアカボシゴマダラなどが飛び交う今日の状況は、60余年前の明るい芝生の三角点からは想像もつかないものとなった。
 賎機山の蝶の世界の復活は、市内の谷津山で行われているような"里山造成"以外に無いのかもしれない。

シリーズ「昆虫のいた時代」
 本会創立から60数年、静岡県の昆虫相も大きく変わってきました。かつての昆虫や自然の様子、あるいは当時の暮らしのことも含めて、掲載してゆきます。

 ちゃっきりむし No.194 (2017年12月発行)未公開

 シリーズ 昆虫のいた時代A「朝霧高原・麓」 諏訪 哲夫

 私の小学校は静岡大学教育学部附属静岡小学校だった。静岡市街地の中心で、駿府城公園の周りの中堀と外堀に挟まれたところにあり、どういうわけかすぐ近くに高いレンガ塀に囲まれた刑務所があった。囚人が腰縄を付けられ歩いて護送されるところを毎日見ていた。入学したのは1949年(昭和24年)で駿府城公園の中にはまだ兵舎が残り、校舎は木造平屋、グラウンドの隅には、スズムシがたくさんいた小さな畑があってそこではカボチャが作られていて戦後直後の名残をまだ隋所に残していた。

学校の毎年の夏休みの行事として、何年前から始められたのかわからないが、富士郡上井出村麓(現在の富士宮市)に、5年生、6年生はキャンプにおよそ1週間行くことになっていた。出かける1か月前には校庭でテント張りや飯盒炊爨などの練習、またキャンプで歌ういくつかの曲を教わった。

 出発した日は2年とも7月25日前後だったと思う。生徒数は1学年3クラスで120人くらいだった。この生徒をキャンプ地まで運ぶのになんとトラックの荷台に40-50人を満載してでかけた。記憶が定かでないが5年生の時は静岡駅前から、6年生の時は富士宮の駅前からだったように思う。当然トラック1台に全員は乗れないので資材を運ぶ車も含めて4台は必要で、2学年ではその倍になるので、おそらく日もずらして出かけたのだろうが今では全くおぼえていない。

 トラックは富士宮の市街地、住宅地を抜けて荷台から見る風景は徐々に変わり、朝霧高原に近づくとタバコ畑の近くを黒い中型の蝶が飛んでいるのが目に入った。静岡旧市内では全く見たことのない蝶に興奮した。これはその後ジャノメチョウであることはわかったが、キャンプ地には見たことのない、自分にとっては珍しい種類の蝶がたくさんいるだろうとわくわくしていた。

 私が蝶に興味をもち標本を作り出したのは小学校4年生、1952年からだった。それまでは小川で魚を捕り、トノサマガエルを餌にしてアメリカザリガニを釣って食べたりもし、またこのころあまりいなかったアブラゼミを一生懸命捕っていたが、捕った虫をそのまま死なせ、捨ててしまっては良くないから何かちゃんとやったら、という姉のアドバイスもあって蝶を始めることとなった。

 子供を満載したトラックは砂埃をもうもうとあげてほぼ1日走ってやっと麓集落についた。この集落は当時十数軒?の民家があり、昔は金の採掘に携わっていたらしい。集落の入り口には大きな建物があった。屋根はかやぶきで、部屋は100畳以上ありそうな大広間が目立っていた(写真)。この建物は東京農業大学の畜産関連農場の宿舎で、かやぶきの建物の裏には炊事棟もあった。宿舎の前には小さな池があり、その池の向こうには足元から天空まで富士山がそびえたち、小さなカシワが点在するだけの草原が富士山の中腹までずっとつながっていた。富士山とは宿舎を挟んで逆側の山並みは麓集落を包み込むように高く険しく、子供には登れそうもない山に見えた。先生は雨ヶ岳と教えてくれた。この山にしても富士山麓の草原にしてもここにはどんな蝶がいるのだろうと思いつつ、いよいよ待ちに待ったキャンプの初日である。

 附属小学校の校風なのか、まだのんびりした時代だったのかキャンプでは自由時間が十分にあった。その時間をフルに使って採集した。昼食や夕食の時間になるとどこかに採集に行ってしまった私を「おーい蝶キチ」と言って探しに来てくれた。5年生の時には集合時間に間に合わず全員で撮った写真に写っていない。宿舎へ入る道と麓集落方面に行く道との三叉路の一角の狭い草原には小さい黒っぽいシジミチョウがたくさんいた。でもすべてがメスでかなり傷んでいた。おそらく食草のナン テンハギがほかの場所にはなかったからだろう、いるのはこの場所に限られていた。小学生の私には名前はわからなかったので静岡に帰ってさっそく高橋真弓さんのお宅を訪ねて名前を教えていただいた。アサマシジミだった。アサマシジミは私が採集する2-3日前の1953年7月24日、同じ富士宮市の人穴で元同好会員の渡辺定弘さんにより静岡県で初めて採集されていた。

 別の日、宿舎の近辺を歩きまわるとヒメジョオンの群落があった。花にはキマダラセセリが複数吸蜜していた。その光景が美しく感じられ、大変な感激で毎日このヒメジョオン群落に通った。炊事棟の前は砂利が敷いてあって、よく水を流しているようで程よく湿っていた。ここには時々チャマダラセセリが吸水に来ていた。本格的な山の中でのキャンプが始まった。毛無山から流れ出る沢にテントサイトが作られた。ここでも採集を続けたが意外に蝶の数は少ない。しかし大きな黄色い蝶が河原に降りて吸水しようとするところを見つけ、慌てて網を伏せた。緊張し、慌てたため蝶とは全く別のところを伏せることとなり、蝶はやぶの向こうに飛んで行ってしまった。初めて見る美しいスジボソヤマキチョウなのに逃がすとは、この時の落胆した感覚は今でも忘れられない。また、ミドリヒョウモンがいつもかやぶきの屋根に執着していたのが印象深かった。今思えば普通種なのだが小学生にとっては珍しい様々な蝶がたくさんいた。近年著しく少なくなって絶滅が危惧されているヒメシロチョウ、コキマダラセセリ、ホシチャバネセセリなども採集した。採集した標本は健在で県立のミュージアムにすでに寄贈した。

 草原がどこまでも広がり、雨ヶ岳、毛無山直下の荒々しい渓谷など、普段自宅の近辺でしか採集していない私にとって蝶も、景色も、植物も、山の空気も、見るもの感じるものすべて新鮮でまさに楽園そのものだった。小学校を卒業し中学生、高校生になっても富士山麓の自然が忘れられず、何回となくキャンプした麓や、隣の集落の根原などに採集に訪れた。これらのことが重なり、脳裏に刻まれて65年も蝶から離れられなくなってしまったようだ。同級生にも"朝霧高原のキャンプ"が忘れられないA君がいて、東京農大の畜産に進み著名な畜産学者になった。

 自分を育ててくれた上井出村麓は最近ではすっかり様子が変わった。農大の宿舎は無くなり"ふもとっぱら"というオートキャンプ場となっている。この中にあるカシワの木に少し前にはハヤシミドリシジミがまだいた。アサマシジミのいた草むらはヒノキの林になってしまっていた。永い歳月のうちには植生の遷移が進み、様々な開発がされ、自然環境が昔のままであり続けることはない。でもどこかに昔の自然環境の片鱗でも残っていればいいのにと思っている。