多くの静昆会員の方々も運営に関わっておられるNPO法人静岡県自然史博物館ネットワークの長年の活動が結実し、いよいよ県立の「ふじのくに地球環境史ミュージアム」が始動します。展示などを含めた一般オープンまでには、まだ一年ほどありますが、現在は県庁内に設置されている整備課が、今年4月からミュージアムという組織として「開設」され、出張展示やイベントを開始します。私は、昨年6月、この新しい博物館に昆虫担当の研究員(学芸員)として採用されました。また、今期より本会の幹事に加えていただきました。ここに自己紹介をかねて、これまでの虫屋としての経験を披露させていただき、これからの抱負を記しておきたいと思います。
大阪時代
私は1971(昭和46)年、大阪市西成区天下茶屋で生まれました。この界隈は、かつては好事家や芸事を生業とする人々が多く、谷崎潤一郎の作品にも登場することのある風情ある下町で、はるき悦己「じゃりン子チエ」の舞台でもあります。無論、自然は少ないのですが、物心が付いた頃から生き物が好きで、学研の図鑑や朝日ラルース「世界動物百科」をいつも眺めていました。当時の遊び相手はオカダンゴムシやトビイロシワアリでした。そんな私の大きな転機は大阪市立自然史博物館での故日浦勇さん(本当は先生と呼ぶべきところですが、敬愛をこめて「日浦さん」と呼びます)との出会いです。日浦さんはガキの私に、優しさと厳しさを持って自然の姿の楽しさと奥の深さを教えてくださいました。この博物館で、膨大な量の昆虫標本の存在に驚き、かつ憧れを抱いたのでした。それが私の昆虫研究の原点になっています。当時、日浦さんの招きで大阪の博物館にいらっしゃった高橋真弓先生の講演を聞いたことも覚えています。たいへん残念なことに日浦さんは私が小学6年生の時、50歳の若さでクモ膜下出血により他界されました。その後は日浦さんの著作を読み漁りました。「自然観察入門」「海をわたる蝶」「蝶の来た道」などは何度読み返したことかわかりません。その頃、高橋先生の「チョウ-富士川から日本列島へ-」も読んで感銘を受けたのを鮮明に覚えています。
中学生からは特に甲虫にはまり、大和川の河川敷、生駒山や金剛山、奈良公園などで採集をしていました。ゴミムシが一番好きでしたが、甲虫はなんでも好きでした。ただ、クワガタムシやカミキリムシにはあまり興味がなく、ゴミムシダマシやオオキノコムシ、エンマムシのような「雑甲虫」が特に好きでした。甲虫は、芝田太一さん率いる大阪甲虫同好会で、林靖彦、伊藤健夫、安藤清志、伊藤昇の各氏らに色々ご教示をいただいて、専門的な知識を得ることができました。当時は、ひまさえあれば、保育社の甲虫図鑑を見ており、その本は今でもミュージアムの私の部屋の本棚に並んでいます。大学は、昆虫の分類がやりたくて東京農業大学に入学し、1990年から東京での生活を始めました。
東京時代
農大に入った私は入学後すぐに昆虫学研究室の門戸を叩きました。一年次から研究室に入り、研究対象をハネカクシとし、各地で採集をはじめました。ハネカクシは落葉をふるったり、沢沿いの落葉を水の中に沈めたりする方法で採りますが、これまでに見たことのない様々な昆虫が採れることもハネカクシに熱中した原因だったかもしれません。その後、ハネカクシの研究をずっと続け、大学院ではキノコツヤハネカクシ亜族の分類学的研究で学位を取得しました。その間、利尻島から与那国島、小笠原を含む日本全国、中国、韓国、台湾、ベトナム、タイ、ラオス、マレーシアなどの各地で採集を行い、ハネカクシの新種や新記録種を発表しました。これら一連の研究では指導教官の渡辺泰明先生とともに上野俊一先生から御指導いただいたことが、分類学徒としての私の礎となっています。
2001年から昨年5月までは、財団法人自然環境研究センターで、主に環境省の自然環境保全政策に関連する調査研究を行う業務に従事しました。レッドリスト・レッドデータブックの編纂、自然環境保全基礎調査の取りまとめ、外来生物法の制定の準備などの外来種対策、シカの増加による生態系影響及び防鹿柵設置による回復調査、小笠原における昆虫の保全と自然再生などの業務を行ってきました。自然研では昆虫のみならず、自然環境と社会の接点、生物多様性保全を考え学ぶまたとない経験をすることができました。
これからのこと
今回、「ふじのくに地球環境史ミュージアム」のスタッフとして静岡に来ることができ、たいへん嬉しく思っています。私は静岡ほど地理的に昆虫相が面白い都道府県は他にないと考えていますが、ここで追及したい大きなテーマがふたつあります。
一つ目はこの地域におけるハネカクシの分布を徹底的に調べること。ハネカクシの中には後翅が退化し、地域的に著しい種分化を遂げている群があります。これらの分布を詳細に調査すれば、まだまだ新種も見つかるでしょうし、分布境界がどうなっているかにも興味があります。また、これらを分子系統学的に解析することで、その成立の歴史の解明もできるだろうと目論んでいます。フォッサマグナの意義や伊豆半島衝突説の検証にも、昆虫からの視点で迫りたいと考えています。
二つ目は昆虫相の解明です。昆虫のインベントリーを進め、「静岡県昆虫誌」をまとめあげることが目標です。これからミュージアムが核となり、これまであまり調べられてこなかった群も含め、何が静岡に生息しているかを追求していきたいと考えています。この目標に向けては、皆様と一緒に進めていくことが必要不可欠ですので、よろしくお願いします。上梓する暁には、静岡県が一番多くの昆虫の種数を擁する都道府県となっているだろうと確信しています。
静昆61年の歴史と伝統に何を付け加えていくことができるかを考え、楽しく実践していければと考えています。皆様これから、どうぞよろしくお願い致します。
静岡昆虫同好会会長の北條篤史氏はかねてより病気療養中のところ、2015年4月26日、逝去されました。75歳でした。
北條氏は1953年の本会創立時からの会員で、当時中学1年生でした。安倍川水系のウスバシロチョウ、用宗地区を中心としたクロコノマチョウの調査に情熱を注ぎ、静岡市立高校から国学院大学を経て上野松坂屋に勤務し、釜無川周辺や奥秩父など山梨県の蝶の分布調査を、故田島茂氏と共に取り組まれ、その一部は「富士川水系のギフチョウ属」「山梨県におけるウスバシロチョウの分布」として「昆虫と自然」誌上に発表されています。また、山梨県の昆虫好きの高校生に声をかけ、甲州昆虫同好会の設立にもつながってゆきました。同会の連絡誌「月見草便り」の誌名は北條氏が太宰治にちなんで提案したものです。
仕事を終えた後にはしばしば田島氏、故木暮翠氏と上野広小路近くの喫茶店「タカオ」で落ち合って蝶の調査など語り合い、やがて共感する人たちが定期的に集まる場となって、アカデミックサロン「タカオゼミナール」に発展してゆきました。
1970年に静岡松坂屋に転勤してからは自宅近くの小浜海岸に生息するエゾ(ヤマト)スジグロシロチョウの観察からモンシロチョウ属の食性の調査に取り組まれました。調査範囲は青森県や対馬にまで及び、その成果は「静岡県およびその周辺におけるモンシロチョウ属の食草」「対馬におけるタイワンモンシロチョウの食性」として「昆虫と自然」に発表されました。故日浦勇氏の呼びかけで開かれたモンシロチョウ属の談話会にも加わり、その内容は「Pierisの研究をめぐって」として元元社の「蝶」に収録されています。また、第1次木暮昆虫調査隊の一員としてソ連邦カフカズ山脈への遠征にも参加されました。
1981年~1984年の3年間の香港松坂屋での勤務を終えて再び静岡に戻ってからは、木暮隊を中心としたロシアのアムール地方などの調査、静谷隊のミャンマー調査に加わられた他、モンゴル、キルギス、中国雲南省、スペイン、ラオスなどに、モンシロチョウ属を中心とした海外調査を精力的に行ってきました。
2007年には静岡昆虫同好会の会長に就任、その温厚な人柄で会をまとめてこられました。また、日本蝶類科学学会の理事も務められました。
昆虫の他に、映画、文学、クラシック音楽、そしてこよなくお酒を愛されました。陽気ないいお酒でした。
ご冥福をお祈りいたします。
なお、1月の幹事会まで、会長職は事務局(諏訪哲夫)が代行いたします。
私は小学生の頃から昆虫少年であった。生まれ育った浜名湖の岸辺は自然も多く、多くの昆虫が生息していた。高校でも生物が好きで、クラブ活動は生物部昆虫班に属し、大学も昆虫の学べるのは理学部生物学科と農学部に応用昆虫学教室があり、自宅より通える地元大学の農学部にした。しかしここは農薬の研究でいかに害虫を駆除するかの勉強でガッカリしたこともあった。
大学在学中や就職直後には静岡昆虫同好会や日本鱗翅学会、自然保護協会等に加入したりしていたが、仕事が忙しくなり、いずれも会費未納で退会処分になっている。
その頃は地元で集めやすいトンボの採集に夢中になっていた。
昭和45年には静岡昆虫同好会の主催で富士山麓に昆虫採集に出かけたが、その際当時の高橋真弓会長から静岡昆虫同好会はチョウをやっている人は多いけどトンボはあまりいず、静岡県産のトンボの発表は今までにないから駿河の昆虫に投稿してほしいと依頼され、1972年の№79に発表している。
その後も一人で採集はしてたが、8年前に仕事もリタイアすると、かつてからの夢としていた全国の昆虫標本の展示してある施設を巡る事にした。
取り敢えず何処にどの様な施設があるか知ろうと、先ずは図書館に行って昆虫館ガイドの本を探したが、戦前に一度出版されたことはあるが現在は無い事がはっきりとした。博物館や動物園、水族館や美術館と言ったものはあるのに、出版しても売れないのかなとも思った。
それでどうせ巡るなら昆虫館ガイドの本が出来るような取り纏めをしようと考え、名称や所在地、料金、アクセスや駐車可能台数、特徴、沿革等調査シートを作りそれに記録していった。
そのため先ずは何処にどの様な施設があるか、インターネットで調べたり、博物館や動物園のガイドブック等で昆虫関係の記事を探したり、マスコミの記事の中で見つけたり、実際に出掛けた時にはその施設の人にこの近くで他に昆虫標本展示施設がないか聞いたりした。
その結果調査開始以降閉館したものを含め284施設が見つかり、うち調査時点以前及びその後確認した閉館したのは14施設ある
内容は昆虫館67、博物館は95、他に科学館、動物園、飼育観察施設、郷土館、観光施設、変わったところでは高松市のように昆虫展示室があるような市民文化センターもあった。そのうち私が実際に訪れたのは平成27年3月末現在224施設です。
うち静岡県内で承知しているのは8施設(伊東市の伊豆シャボテン公園地球環境館、藤枝市のふるさと世界の昆虫館、浜松市動物園昆虫館、静岡市の静岡県自然学習資料センター(投稿の時期はふじのくに地球環境史ミュージアム)、森町のアクティ森昆虫館、磐田市桶ヶ谷沼ビジターセンター、磐田市竜洋昆虫自察公園、川根本町資料館やまびこ)である。
うち川根本町資料館やまびこは大井川上流の接岨峡温泉近くにあり、長島ダムが出来る時に、ダムで水没する地区の昆虫を調査したものであり学術的価値も非常に高く、整理内容も素晴らしいものである。
調査巡回は近くは車で行くが、遠くは鉄道や航空機を使用し、現地はレンタカーで回るのが多いですが、経済的な方法を研究するため、事前に旅行業務主任者の資格を取ってみたりし、如何に安くするため、例えば札幌方面に行くのに、札幌雪祭りの直前なら羽田~新千歳の往復航空券と2泊分の宿泊費が2万円しないとか、かつて大阪以西のJR線が3日間新幹線や特急のグリーン車を含め1万2千円の時があり、長崎方面の特急グリーン車を貸切状態で利用したこともありました。
また大失敗として、栃木県方面に行った時帰りに新幹線に乗ろうと宇都宮駅に着いた時にカメラはケースだけあって本体が無い事に気付き、駅やレンタカー会社、最後に写真を撮った栃木県立博物館に照会しても見つからず、帰宅後は知り合いの静岡県警の警視に頼んで他所の県も探して貰っても見つからず、カメラ本体は失くしても今まで撮った写真でパソコンにコピーしていないものがあり、再度行く必要があるけどかなりの部分は行き出していないです。
変わった体験では、四国の屋島に「夢虫館」という昆虫館があり、経営者は大阪の海遊館や沖縄美ら海水族館の水槽を制作したことでも知られるアクリルパネルのトップメーカー「日プラ㈱」であり、土曜日曜しか営業していないが、近くの別の昆虫館が土日休みであるため、是非2009年3月13日の金曜日に行きたく、ホームページをよく見れば平日でも10人以上の団体なら開館するとあったので、10人分の料金を払うから見学させて欲しいと依頼した。すると暫くして熱意を感じたと無償で入館させてくれた。しかもこの夢虫館は都合で今月末で閉館する事が決まっていたことを現地に行って初めて知ったし、記念にアクリルに入ったモルフォチョウの標本を頂いたりした。
近隣の昆虫館でチョウに興味のある人は山梨県北杜市のこぶちざわ昆虫美術館がお薦め、近くには北杜市オオムラサキセンターもあった。他にも長野県須坂市の蝶の民俗館は世界の蝶の標本も多く素晴らしいが、蝶柄の小物、玩具などなど、蝶に関するものがたくさん展示されており、一見に値します。
今後はまだ行っていない北海道東部や山口県方面や、交通の便がかなり悪くて行き出せなかった所に出来るだけ早く行きたいと思っていますが、これらは以前出掛ける予定を立てたけど、近くまで行っても都合がつかなかったり、自然災害等でやむなく延期せざるを得なかったのが殆どです。
先日、27日の朝、奥さまの北條宏子様からご主人篤史様ご逝去のお報せをいただき、まさかこんなことに、という思いにしばらく茫然とした気持ちになりました。
篤史さんの包容力に満ちた円満なお人柄は、わが家では妻はもとより、嫁いだ二人の娘たちも深く理解し、尊敬しておりました。
篤史さんとの初めての出合いは、今から64年前の1951年のことでした。篤史さんは小学校5年生、私は6才上で高校2年生でありました。
篤史さんは根っからの昆虫少年で、毎日のように市内の賎機山に登って蝶などの採集に夢中でした。二人の出合いの場所はその賎機山だったのです。
それから2年たち、地元の静岡大学に入学した私は、数名の仲間とともに静岡昆虫同好会をつくり、中学校1年生となった篤史さんもその会に入会しました。
静岡昆虫同好会は、創立の1953年から今日の2015年まで、半世紀を超える62年も続き、篤史さんはその2代目の会長として今日まで活躍してこられました。
篤史さんが蝶の研究で一番興味を持たれたのは、いわゆる蝶マニアに人気のあるミドリシジミ類や熱帯産アゲハチョウ類のような珍品美麗種ではなく、モンシロチョウとその仲間のような地味な蝶についてでした。
篤史さんは進学のために上京し、東京で就職されましたが、そのとき"タカオゼミナール"というアマチュア蝶研究者からなる、かなりアカデミックなサロンの設立にたずさわりました。そしてここで得られた新鮮な発想と、普通の蝶マニアとは異なった気風を、静岡昆虫同好会に持たらされたのでした。
私は篤史さんとたびたび外国へ蝶の調査に出かけました。最初はコーカサス山地、それは1979年で、篤史さん39歳のときでした。すばらしい高山の風景の中で蝶に親しみ、仲間どうしで楽しく語りあったものでした。
その後、1998年にはモンゴルへ、2001年には極東ロシアの日本海沿岸へ、そして2008年にはキルギス山地へもご一緒しました。
こうした海外旅行では、とかく仲間どうしが"蝶の採りあい"などで気まずくなり、人間関係がうまくいかなくなることがよくあるのですが、篤史さんはつねに冷静に、そして暖かくやさしく仲間の人たちに接し、その人望には輝くものがありました。
篤史さんはこの数年体調がすぐれず、入退院をくり返しておられましたが、昨年の5~6月の若葉のころ、私は2度ほどお誘いして山梨県の富士川中流域に出かけました。輝く若葉とウスバシロチョウの飛ぶ美しい自然の中で、篤史さんは本当にしあわせそうでした。
篤史さんは今ごろ遠い世界から、静岡昆虫同好会の皆さん、まじめにやっていますか、と微笑みかけているにちがいありません。
ここに心から故人のご冥福をお祈りいたします。
2015年4月29日
(この文は葬儀のさい、弔辞として読ませていただきました。)
北條篤史さんとの初めての出会いは60年ほど前のことである。彼が中学2年生の時、町中の静岡安東中学より田舎の用宗の長田南中学へ転校した時に始まる。自分のその時の感覚で、身長の"どでかい男"がやってきたなとの第一印象であった。学年も一つ上だったため、しばらく交流がなかったが、チョウの採集をやっているということから、つきあいが始まった。しばらくして、クロコノマチョウの大発生があり、用宗周辺の神社・竹林など調査に一緒に行ったものである。大学時代、下宿先も同じで、酒の飲み方も彼から教わった。もちろん彼は当時からむちゃくちゃ、酒は強かった。就職先も同じ松坂屋であり、交流は長く続いた。
海外へも彼とたびたび採集旅行に出かけたが、最初のソ連のコーカサスでの経験は忘れがたいものであった。採集したチョウは彼に渡すことにしていたので、この地でアポロを数頭渡したら驚いていたのを思い出す。おいしいコニャックとキャビアに舌つづみをうち楽しい旅でした。静岡市安倍奥での採集初記録となった大谷川のクモマツマキチョウ2♂を、彼の出張帰りに我が家へ来てもらい手渡した時の驚きの顔、新間谷川奥で採集したミスジチョウを"北條!コミスジの大型を捕ってきたぞ"と言って渡した時の顔、ロシア採集旅行のゴルヌイで、水ダモでホザキナナカマドの花より採集した、ウスバキチョウ、ウスバシロのホエーブスなど数匹まとめて渡した時の顔、うれしげな楽しげな表情は今でも脳裏から離れない。スペインのグラナダ、世界遺産のアルハンブラ宮殿と雪渓の残るシェラネヴァダ山脈や、第2次キルギスでは第1次の時行けなかった夢であったイシククル湖周辺を散策したひとときが、あざやかに思い出されます。あらためてご冥福をお祈りいたします。
東京で学生生活を送るようになったころ北條さんと井川峠へ出かけた。当時、井川峠は、バスを六郎木で降りて、大代、一服峠、北立場から峠へとたどるのが唯一最短のルートだった。峠の周辺でハナカミキリなどの甲虫類を多数採集して、峠下の草陰でぐっすり眠っている北條さんを起こした。北條さんは前の日、用宗の海で泳いでいた。寝起きと前日の疲れでペースがあがらない。下りだったとはいえ、とうとうバテテ動けなくなってしまった。終バスに間に合いそうにない。そこで、近道と思い、一服峠を孫佐島へと降りることにした。ところが、伐採用の道を選んだらしく、幅広い道から、次第に急な沢へと迷い込んでしまった。後で聞くと、そのすこし先は遭難の名所の「コンヤ沢」だった。もう一度、一服峠へと引き返し、本来の孫佐島への道へと出た。終バスに間に合わなかった。たっぷりと日も暮れて、孫佐島にたどり着け、民家に泊めてもらった。北條さんは疲労困憊していた「遭難もどき」のさなか、一服峠で「クロヒカゲモドキ」を手にしていた。
全国の虫屋と つき合いの深い方々は多い。虫仲間の集いは各地で多い。でも家にまで 行くことは 年齢が高くなるにしたがって 機会はなくなってくる。長いつきあいで 行き来のある人もいるけれど、沢山の虫屋の家を訪ねたことのある人は きっとあまりないと思う。そういう中で ボクはかなり上位にいると 勝手に思っている。
約40年位い昔、静岡で高橋真弓さんの家をたずねたら(突然だったので) 不在だった。なんの旅行のついでだったのか すでに記憶がない。北條篤史さんに電話をしたら 在宅で 遊びに行っても 良いということに なった。ただ虫の話を したかったのだと思う。用宗という駅に行った。北條さんとは ひょっとしたら あの日 初対面だったかも しれない。北條さんも 「いらっしゃい」と言ってくれたのだから、ボクの事を知っていたが、どうも 酒とバクチにあけ
くれているように 思っていた ふしがある。酒を飲んでいたのは 本人だったらしい。
2014年夏、久しぶりに北條さんに電話をした。「木曜社の西山です」と言うと しばらく空白の時間があった。「ニシヤマですが お忘れですか?」 と いうと 返事があった。長い間 電話もしたことがないので びっくりしたのかもしれない。
結局 当日は 諏訪哲夫さんに車を運転してもらい、北條さんも一緒に 静岡県内の各所を 案内してもらった。
40年振りに 用宗の北條家をたずねると 庭のミカンの木は 巨大になっていた。街中にある ヤブガラシの花には 沢山のアゲハチョウが 集っていた。どの家にも夏みかんの木があって、アゲハの多い 原因は それに違いない。昔の殿様が 非常用にミカンの苗木を植えさせたと 北條さんに 教えてもらった。
「木暮さんとまた一緒にどこかに行きたいね」「バイカル湖なんかいいね」
2012年8月、伊豆高原で行われた合同調査会の帰り、北條さんと二人で車の中でそんな会話をしていた。バイカル湖は私が初めて木暮隊に参加した懐かしい場所だ。そして北條さんにとってはまだ一度も見たことのない憧れの湖だったと思う。木暮昆虫調査隊の最後の計画は、バイカル湖畔を通ってウランウデの東の方に行く予定で、北條さんも私も参加することになっていた。それが様々な事情で中止になって、それっきり木暮隊の遠征は終わってしまっていた。そして、伊豆高原から帰宅したその夜、木暮翠さんの訃報を聞いた。
北條さんとは高校生のころに同好会の会合で顔を合わせていたはずだが、直接話をするようになったのは大学生になってからだった。高橋さんのお宅を訪ねたときに出会ったのがきっかけだったと思う。高橋さんが南米に調査に出かける直前で、田島茂さんと一緒に"アンデスで履く下駄"を餞別に持ってきていた。この時、東京で会うことを約束した。
私が大学に進学して上京した時、これからどんなことをテーマに蝶の調査をしたらよいのか、当時盛況だった京浜昆虫同好会の五反田での「木曜サロン」に二回ほど出てみた。しかし「何を採るにはどこに行けばいい」と言う話題ばかりで、私の求めていた「何を調べたらいいのか」というような話は得られなかった。このことを北條さんに話したら、じつは北條さんも上京当時同じことを経験されていた。東京上野の喫茶店「タカオ」で、田島さん、木暮さん、そして鈴木英文さんも呼んで、「タカオゼミ」が始まった。金曜日にしたのは木曜サロンを意識したからだ。いつも熱く問題提起をしていたのは北條さんだった。そのあたりのことは原聖樹さんの「ギフチョウの自然史」(築地書館)の19~20ページに、鈴木英文さんのイラストを添えて書かれてある。「大風呂敷の北條」「大ぼらの北條」などと呼ばれ、とにかくみんなを動かすエネルギーの源になっていた。
バイカル湖畔のリストビアンカのレストランで、北條さんは好きなお酒を、私はアイスクリームをなめながら、湖を背景に飛ぶ蝶たちを二人で眺めたかった。
「いいなあ」「いいねえ」
先日4月に亡くなられた北條篤史氏とはタカオゼミナール創立以来の長い付き合いで、思い出すことが多すぎて何を書けばいいのか迷うところであるが、浜松市(当時の浜北市)宮口へヒメヒカゲの採集に行った時のことを書こうと思う。
当時の標本を調べてみると1976年6月15日と書いてある。梅雨入り前で晴れていたように記憶する。国鉄二俣線(今の天竜浜名湖鉄道)の宮口駅で降りたが、湿地まで行く道がわからない。しかたなく線路ぎわの道を歩いて二俣線のトンネルの入口まで行き、そこから田んぼの畦道を歩いていくと湿地に行き着いた。山からの緩やかな斜面はまばらに雑木がはえ、地面にはところどころ水が流れ、典型的な湿地で、ヒメヒカゲがあちこちに飛び交い、ウラナミジャノメやハッチョウトンボもいて楽しい採集であった。帰りは近くの道路に出て宮口駅まで歩いたが、駅の少し手前に古い店構えの作り酒屋があった。当然酒に目のない二人だから、4合入りの日本酒を1本ずつ買い込み、すぐに飲み始めた。駅のホームで、二俣線の列車の中で、東海道線への乗り換えの掛川駅で、東海道線の列車の中で。北條氏のお宅のある用宗駅についた時には2本とも空になっていた。そして北條氏は言った。「これから家で飲もう」と。お宅に連れていかれた後のことは記憶に残っていない。ただ次の日ひどい二日酔いであったことは確かである。思い起こしてみると北條氏との思い出には必ず酒がついてまわる。蝶が採れたと言っては祝杯をあげ、採れなかったと言っては残念会で飲んだ。私の車で採集に行くと、帰りには必ず酒の看板が掛かっているコンビニで車を止めさせた。人間一生のうちに飲める酒の量は決まっているというが、北條氏は早々に一生分を飲んでしまったのかもしれない。いいお酒ではあったが、もう少し長く一緒に飲みたかった。宮口の湿地はその後乾燥し、ヒメヒカゲもウラナミジャノメもいなくなった。国鉄二俣線も天竜浜名湖鉄道となったが、宮口の作り酒屋は工場も新しくなり繁盛しているようだ。39年の月日はあっという間に過ぎてしまった。
私が北條さんと知り合ったのは、私がまだ大学生の頃に神奈川県相模原市の国立相模原病院内の会議室で開かれていた、神奈川昆虫談話会の例会でした。その年の前に、私は「信州最奥の里に蝶を求めて」と題した報文を、同好会誌に出していたので、北條さんからあれこれ質問されたのが最初の出会いでした。当時、北條さんは東京上野の松坂屋に勤務されていたので、比較的お会いする機会が多くありました。
その後、北條さんは静岡に戻られてからも、蝶友の原聖樹氏と静岡県の蝶類分布調査の時には必ず、北條さんに地元を案内して頂きました。
その後、原さんと同じ公務員になったので、北條さんの休日に合わせて、良く静岡まで足を運ぶことが何回もありました。特に当時、急速に分布を広げて来た、クロコノマチョウの分布調査の時は、北條さんは日本シリーズをラジオで聴きながら、ススキが生えている場所を叩き出していた印象深い姿を今でも鮮明に覚えています。
北條さんが上野の松坂屋に勤務していた頃、当時起きていた乱獲ブームに、北條さんは嫌気が差して、上野広小路の知人の喫茶店「タカオ」に静岡県出身者な
どの在京の蝶屋さん達が集い、蝶をもっとアカデミックに研究しようと創設したのが「タカオゼミナール」の始まりでした。
北條さんは大柄な身体に似合わず、小型の蝶に大変興味を持たれていて、特にピエリスの仲間の話しになると、止めどなく、持論を熱く語っていたのも良き想い出です。また、その後ゼミメンバーになった朝鮮大学校の先生から、母国への蝶類分布調査をメンバーに依頼される話があり、殆ど行く気になっていた私を、北條さんから公務員が国交の無い国に行くと色々と問題が起きるので思い止るよう説得されました。今ではこのことを非常に感謝している次第です。
現在も「タカオゼミナール」は、JR原宿駅前の喫茶店で毎月第二金曜日に開かれています。
中国の諺に"井戸を掘った人の恩は忘れない"があります。
ゼミ開始前に時間があると、上野松坂屋近くのアメ横商店街をうろうろすることがあり、そんな時には決まって休憩を取る場所が、空調の効いた松坂屋店内で、北條さんに想いを馳せながら休憩を取るこの頃です。
北條さんのご冥福をお祈り申し上げます。
北條さんとは、私が静岡昆虫同好会に高校一年生で入会した時から 親しくして頂きました。それは富士宮での昆虫採集の面倒を見てくださった 故小林國彦さんと親しかったことに起因しているように思います。昼過ぎの会合は少し遅れていっても、2次会を近くの蕎麦屋の2階でやるからそこには必ずついてゆくようにと、いつも小林さんから言われることでした。そこは虫捕りの最新情報が詰まっている時間であることは、静昆の会合開催時、今も昔も変わらないことです。
小林さんは電気店を経営している関係で水曜日だけが休みの日でした。同じ水曜日が北條さんの唯一の休みということで、機会を見ては、御同道願って昆虫採集を楽しんでいたようです。思うような採集成果があがらなかった時は、決まって"今日も北條さんなんだよ!!"と小林さんは表現しました。解釈は次の通り。お寺にいるのがお坊さん。頭は坊主頭。数字で言うゼロを指します。でも"お坊さん"とは檀家の方は言いません、"方丈さん"と呼びます。そこで思うようにならないお方(チョウ:長〈おさ〉)でもあり、文句を言いたくても言えない相手、採りたくても 採れないもの! そこで同じ音のホウジョウサンとなったわけなのです。お二人ともなかなかの洒落っ気たっぷりの虫捕りを楽しんでいました。
北條さんはチョウの中でもPieris北條と呼ばれるほどに、シロチョウには広い見識をお持ちでした。ロシアにご一緒させて頂いた時には、ほかの人が日本ではなかなか採れないオオイチモンジを相手にしている時に、シロチョウをきちんとネットに入れていました。夕方になればツンドラの地下からの水道水の冷たいシャワーの洗礼を受けました。したたかにいじめられた体に、ちょっと度数高めのピーヴォ〈ビール〉を流し込むようにおいしそうに飲んでいました。飲んでの話題はチョウのことだけでなく、陶器・磁器、絵画にも及んで、語り口が軽妙で、私にはいい刺激になりました。おかげで静岡松坂屋での工芸作家展で入手したものだけどくれてやるよと、いくつか頂きました。高級な陶器が我が家には大事に使うときだけ用に、納まっています。
"それにしても 採集に遠いところに行くんだから、虫のことだけでなくて、初めて行くところなら ちょっと調べると、チョウの姿を見られなくても、地域の産物は比較的探せるものなんだよ。先ずは 地酒の名前くらいは調べておかなくちゃな"と宿題を頂いた福島のキマダラルリツバメ採集は意外な展開が待っていました。チョウセンアカシジミの大量産卵をも見た充実した採集でした。松本
で開催した日本鱗翅学会にはみんながJRで行くのに、私の軽トラックで浜松経
由で松本まで高速道路を使わないで行ってくれの注文を受けて一緒に行きました。虫を捕るのでもないのになと思ったのですが、帰路のJR浜松駅で別れる時のうれしそうなことは忘れられません。北條さんいわく、"今日は最高の成果だったよな。うちに帰っても大きい顔ができるよ"といって握手をしました。下げた袋に松茸の大きなのが、阿智村の道端の店で値段交渉した成果がどっさり入っていたのでした。
"いい虫捕り話はいい酒の肴と器がそろうと最高潮だよね、北條さん!"小林さんと一緒に今ごろやってる頃かねえ。合掌。
今日は新盆の中日にあたり、北條篤史さんが逝去されて早や三ヶ月近くになりますが、同年齢だけに、未だに信じがたい気持ちです。
彼は、私の同窓・先輩から紹介された当時、アカデミックな蝶の研究を目指す「タカオゼミ」でも果敢に活躍されておりました。
最近は、三島で待ち合わせするなど、伊豆半島の城ヶ崎海岸や細野高原などをご一緒するとともに、関東・東海地域の同好会との交流会にも欠かさず参加されていました。城ケ崎の海岸崖に存続するウラナミジャノメの調査もそうですが、本種に関する真鶴半島の報文(神奈川虫報31;1969)は、同所で生息していた貴重な記録になりました。
静昆の会長に就任された後、同会の創立60周年を迎える間に、多くの虫友たちを紹介いただき、かつ、東部生涯学習センターやマイホテル竜宮での総会や新年会の後は、駅ビル内の魚処で新幹線の終電まで、北條さんたちと美味い酒を酌み交わすことも、しばしばありました。
また、極東ロシア・モンゴルなど海外へ出かけられたときは、蝶の土産を恵与いただきました。シロモンコムラサキもその一つで、標本箱の中で輝いています。
懐が深く、品格の高い同氏のお人柄は、先輩諸兄も称賛されておられるところですが、私にとって、助言や示唆をいただくなど、懐かしい思い出が付きません。新盆中元節を迎えた日に想いました。小生の番が来たときは、美味い酒を冥途の土産として持参しようと、自らを慰めながら、追悼の言葉を綴った次第です。
ご家族はもとより、会の皆さまにおかれましても、悲しみと残念な気持ちで一杯のことと察し、衷心よりご冥福をお祈りします。
2015年7月15日 記
(元)伊豆昆虫ゼミナール
北條さんの訃報を耳にしたのは、すでに葬儀も済んで数日経った頃でした。晩年、かなり体調を崩されている様子が窺われたので気になっておりましたが、ついに旅立たれてしまいました。『静昆』が地方同好会によくありがちな、仲間内だけで結束を固めた排他的な雰囲気を全く持っていないのは、北條さんの人柄にも因るところがあるように感じられて、のこのこと静昆の新年会に参加させていた
だいているうちに、お別れの日が来てしまいました。
1990年代以降、Parnassius探索のために8回ほど入藏している私に、いつだったか、北條さんが言いました。「稲ちゃん、もしチベットでピエリスを採集する機会があったら、ついででいいから、是非、何でもいいので採ってきて欲しい…」と。幸い、1996年に単独で東チベット遠征に行った際の三角紙が残っていたのを思い出し、チェックしてみたところ、氏が欲しがっていた蝶が出てきました。
・Pieris( Sinopieris) dubernardi Oberthuer,1884.東チベットチャムド地区、横断山脈・他念他翁山系、カチ拉、4,600m、1996年6月17日、稲岡茂採集。
ピエリスの最高峰のひとつとされる種で、中国四川省~チベット~ヒマラヤ高地の特産種です。わが家で眠らせておくよりもピエリストの北條さんのところに置いといた方が、せっかくの標本を活かせるナ…との思いから進呈することにしました。三角紙標本を手渡したときの北條さんの緩んだ顔が今でも忘れられません。
身体を病まれてから遠出されなくなったと聞き及んでいますが、夢はいつまでも中央アジアの荒原を彷徨っているのでしょう。合掌。
北條さんと最後に会ったのは4月2日だった。1年ほど前には、彼はご自分の標本を整理するため、整備中の県立自然系博物館に2週間に1度くらいのペースで通っていた。このペースはだんだん落ち、最近では1ヶ月に1度くらいになっていた。4月2日は久しぶりに出てきたので体の具合など最近の様子について話をした。「最近の調子はどう?」との私の問いに、「うんまあ、変わらないよ」と言いながら机の上にあった「TSUISO」などに目を通していた。そのうち、椅子に腰かけたまま眠ってしまった。寝息がちょっと普通ではないように感じた。このところ会うたびに痩せてきていて、食事がしっかりとれていないようだ。好きなお酒も飲んでいないといっていた。あまり元気がないなと私は強く感じながら、帰りに静岡駅まで車で送る際に、「呼吸の音が気になるけど」と話したところ、時々以前にもこのようなことがあって承知しているとのことではあった。4月8日は定期検診の日だった。検診の結果心臓に水がたまっているとのことで、即入院を余儀なくされた。入院時は普段と変わることなく過ごしていたとの奥さまのお話だったが、4月26日容体が急変して帰らぬ人となってしまった。
彼が現職の時は水曜日が休みのため私とは休日が合わず、一緒に採集に出かけることは少なかったが、お互いに退職してからはサツマシジミやスギタニルリシジミなどの調査で近隣の里山を回り、時に北海道や八重山にもご一緒した。採集から帰るとビールを飲みながら展翅をする時が至福の時だといつも言っていた。
収集した蝶のコレクションはかなり多い。標本箱で220箱くらいだと思う。現在整理中なので正確なことはわからないが、1955年のクロコノマチョウ大発生の際の調査した時の標本が目を引く。また、1950年代以降分布調査の対象だったウスバシロチョウや、意外にも大型ヒョウモンが多い。しかしなんといっても圧巻なのはモンシロチョウ属であろう。標本箱で36箱、2000頭以上はあろう。この仲間はモンシロチョウをはじめ多くが普通種で、見栄えがしないのでこれをコレクションしようという人は少ない。一方、判別の難しい種がふくまれ、いわゆる「種」の問題を考えさせられる興味深い種群でもあることから、彼の持っているアカデミックな一面をくすぐる存在であったのであろう。そのためこのコレクションは膨大となり、日本有数のコレクションとなった。おおくの虫屋さんに声をかけて、譲り受けた標本や購入した標本もあるが、ご本人もたかが"モンシロチョウ"のために世界各国に採集に出かけた。ソ連時代のコーカサスを皮切りに、ロシア、モンゴル、スペイン、キルギス、トルコ、中国、韓国、ラオスなどのほかミャンマーには2ヶ月間も行った。ここではスジグロシロチョウの2倍もあろうかというextensaを複数採集している。生前からこの蝶の飛んでいる姿を見、採集することを夢見ていたようでさぞ大満足であったに違いない。
北條さんの残されたコレクションが早い機会に整理され、県立自然系の博物館に保存されて今後の研究材料として活用されることが故人の遺志を継ぐことになると思う。
合掌
12月のクリスマスや歳末で賑わう静岡の繁華街は富士宮の小さな町に住む高校生にとっては刺激的でわくわくさせるものがあった。学校が冬休みに入った頃、静鉄電車を音羽町で降りて清水山公園の交番の角を右に折れた瓦場町の静岡予備校のちょっと手前右側に小長谷謄写堂はあった。富士高の生物部の部誌「すいれん」の原稿を渡したあとは、呉服町、七間町に行ってラーメンを食べ、当時流行っていたアイススケートをしたりするのが楽しみだった。校正、受け取りなどで、少なくとも毎年3回は静岡に通った。
当時の軽印刷はガリ版と呼ばれる謄写版印刷が主流だった。元はエジソンが考えたらしいが英文タイプライターが普及した欧米とは異なり、日本で改良発展した印刷法だ。板やすりの上にロウ原紙を置いて鉄筆で文字を刻む、ガリ切りと言った。インクをつけたローラーを当てると刻まれたところだけインクが通ることで印刷される。学校のプリント、文集、試験問題、労働組合や学生運動のビラなど各所で使われた。
静岡昆虫同好会の『駿河の昆虫』も高橋さんの手によるガリ版印刷だった。そして各高校の生物部の部誌も生徒たちがガリ切りをして発行されていた。しかし慣れない者にとってはきれいな印刷物を作るのは難しい。そこで当時はプロの職人がガリ切りをする町の印刷屋があった。小長谷謄写堂もその一つだった。
高校の生物部で小長谷謄写堂に部誌の印刷を頼んでいたのは静岡市立高校の「自然の友」が最初だった。やがて静岡高校生物部の「?高生物」が続いた。それに倣ったのが富士高校生物部の「すいれん」だ。この3校の生物部は静岡昆虫同好会設立の母体となった生物部である。その3校の部誌がそろって同じ印刷屋だったのは偶然ではないと思う。昆虫調査の成果を競い、情報を交換し合う中で、部誌の内容や印刷についても互いに影響し合っていたと思う。富士市にある富士高校が地元の印刷屋によらず、遠く静岡の小長谷謄写堂を選んだのは他の2校の部誌の仕上がりの良さにあったと思う。3誌は兄弟誌のように装丁が似ていて、表紙の下部には校章のあとに生物部名が同じ書体で書かれてある。
やすり版を鉄筆で、となると、硬いカクカクした文字になりがちだが、小長谷謄写堂のおやじさんの字は柔らかい温かみがあった。毛筆体や斜めや丸い文字ではない、タテヨコはきちんと直角だが、角に丸みがあるのだ。もう一つすばらしかったのが表紙のカラー印刷である。色ごとにガリ版で切った原紙をインクの色を変えて何回も重ねて刷る多色刷りである。「すいれん」25号のギフチョウの表紙は、黒、セピア、赤、オレンジ、黄色、緑、水色、青の8色がずれることなく1枚の絵を作っている。鉄筆だと硬い線画になりそうなものだが24号のアサギマダラの表紙は5色だが緑と黒には濃淡があり、全体がぼかしたソフトな感じに印刷されている。
図鑑や写真などを持って行って、表紙はこの蝶を書いてくださいとお願いすると、おやじさんは「普通この値段では引き受けないんだが」と言っていた。相手が高校生でもあり、案外自分も腕前を見せることを楽しんでいたのかもしれない。
あの頃、各高等学校の生物部は調査研究の成果を載せた部誌を競って出していた。お互いに郵送して交換し合い、それを見ては他校のレベルの高さに刺激され、負けまいと調査研究に励んだ。浜松西高の「生物交流」、掛川西高の「蟲藻」、藤枝東高の「GEMMA」、東海一高の「アサギリ」、韮山高校の「Cimp」…。
昆虫や植物の採集記録、野鳥の観察、プラナリアやオジギソウを使った実験、夏合宿の報告などが書かれていて、高校生たちの熱気ある活動の様子がうかがわれる。当時はまだ調査が十分行われていなかった南アルプス地域などの調査や、今では見られなくなった昆虫類の記録も多く、自然史資料としても貴重なものとなっている。また、当時の生物部は、化学部や郷土史研究部などと並んで花形の大所帯のクラブであることが多かった。将来は生物系の理学部、教育学部、医学部、農学部を目指す者が多く所属していた。そういった中で静岡県の自然史研究は進められ、それにかかわる人材が育ってきたと思う。
やがて印刷技術も変わり、自動製版されるようになって鉄筆でガリ切りすることもなくなった。手書き文字から和文タイプ、そしてワープロ、パソコンへと変わっていった。
これらの生物部誌はその後どうなったのだろうか。今でも健在なものはあるのだろうか。生物部の活動も実験室内での研究が中心となり、フィールドワークは行われなくなってきたと聞く。それと並行して部誌も発行されなくなり、さらには部員もいなくなった。理科や社会科系の、自分で(あるいは顧問が)何をやったらいいか考える部活動が衰退しているように思う。盛んなのは、試合や舞台発表のある、何をやればよいかマニュアルのある、結果がわかりやすい部活動だ。
部誌の巻末の部員名簿を見て、今でも昆虫同好会で活躍している人の多いのにも驚いた。静岡昆虫同好会の個性は"高校生物部の時代に熱く取り組んでいた研究を今も続けている"ことにあると思った。