沼久保駅はJR身延線の富士宮駅から2つ目にある。昔から無人駅だった。身延線で開業初めから無人駅だったのは沼久保のほか寄畑、市ノ瀬、芦川の4つだけのはずだ。丘陵の中腹に取り残されたように1本だけのホームがあって、小さな待合室があった。周囲に人家はなく、集落は長い坂を下ったところにあった。今は駅の下に道路ができたが、それでも"秘境駅"感はいっぱいで、しかも富士山が見え高浜虚子の句碑もあるという"挌"のある秘境駅だ。
初めて沼久保に行ったのは小学生の時に父に連れられて隣の芝川駅まで歩いた時だった。踏切の脇から線路に並行した登り坂があるがそれが芝川に通じる唯一の道で、車の通れる道路はなかった。今思えばたぶんジャコウアゲハだったと思う、黒いアゲハチョウがたくさん飛んでいたこと、身延線のトンネルの上を歩いていることが不思議だったことが心に残っている。
蝶を採集に行ったのは1960年の9月末、中学2年生の時だった。ホームの裏側にある山道を登ってゆくと照葉樹林を抜けた先にちょっとした草地があった。ウラギンスジヒョウモンとメスグロヒョウモンのオスを採った。大型ヒョウモンが2種も採れたことがうれしかった。黒い大きめの蝶もいたがなんの蝶なのか見当もつかず、採集もできなかった。10月の初めにもこの正体不明の蝶を採る目的で出かけた。この日はオオウラギンスジヒョウモンとアサギマダラを初めて採集した。アサギマダラが秋に南に渡りをすることなど当時は知られていなかったので山地にいるはずの蝶が低地にいることに驚いた。謎の蝶はメスグロヒョウモンのメスだったと思う。
丘陵を登り切った所に"羽鮒池"と呼んだ小池がある。今も"池の峠の池"という名で池にまつわる"逆さヤナギ"の伝説を書いた看板がある。1961年秋、ムラサキシジミなどを採集しながら登って、池のほとりでキイトトンボなどを採集した。富士高の生物部誌"すいれん"25号にはトンボ班のメンバーによる翌1962年の羽鮒池でのキイトトンボやショウジョウトンボなど7種のトンボの記録が載っている。同定に疑問のある種もあるかと思うが、少なくともキイトトンボが生息していたのは間違いない。
沼久保の名を有名にしたのはギフチョウだと思う。なにしろ電車横付けの採集地で、遠く千葉県からも採集者が来たと聞いていた。1961年4月、ツマ
キチョウなどを採集しながら線路上を歩いていった時、沼久保駅の手前で線路上を横切るギフチョウを見たのが最初である。しかし沼久保でギフチョウを採集したことはなかった。有名多産地で採れるのは当たり前、自慢にもならないと思っていた。
1962年5月3日、富士高校生物部の2年上の小林国彦氏に連れられてギフチョウの卵の採集に行った。沼久保駅すぐ裏側の竹林にはランヨウアオイが生えていて、葉の裏側からギフチョウの緑の真珠色の卵が見つかった。カンアオイも卵も初めて見るものだった。駅前の坂を下って、今は広場だけになった小さな沼久保小学校の脇を通り、小川に沿って行くと古い石標のある細い分かれ道に出た。あたりはクヌギなどの落葉樹林で、ここにはランヨウアオイとカギガタアオイが混生していた。ギフチョウの卵はどちらにも付いていた。この時の卵は持ち帰って食性の実験に使った。
沼久保駅の線路下の広い斜面は草地になっていてヒメシロチョウが生息していたが当時の富士宮市では珍しくもなかったので気に留めもしなかった。また駿河の昆虫には沼久保という地名でアカシジミ、ウラナミアカシジミ、ミズイロオナガシジミ、オオミドリシジミ、ミドリシジミといった平地性ゼフィルス類の記録もある。近くの安居山地区でウラナミアカシジミなどを採集しているが沼久保地区そのものでのゼフィルス類を探したことはない。漂ってくる匂いでササユリの群落に気づいたこと、エビネの花をたくさん摘み取って入院中の祖母に持って行ったこともあるので、あのころは林床にそれだけの植物の育つ明るい落葉樹林が多かったと思う。
1963年3月、この頃小林国彦氏と越冬中の蝶の調査をしていて沼久保にも出かけた。沼久保駅西側の凹地は小さな水田になっていて、その縁のイボタの木からウラゴマダラシジミの卵を採集した。翌年の春には幼虫も見つけている。駅前の坂を下って集落を抜けてしばらく行くと富士川の岸に出る。逢来橋の東側に数本のエノキがあって、根元からゴマダラチョウの幼虫を26頭も採集した。広い河川敷の中にはヤナギの疎林があって、コムラサキだけでなくクロコムラサキもいるかもしれないというので木に登ったりして越冬幼虫を探したが、降りられなくなって怖かった思い出がある。
この富士川の河川敷はコマツナギが一面に生え、ミヤマシジミの大きな生息地でもあった。やがてクズが広がってきてコマツナギが覆われるようになってゆき、ミヤマシジミも姿を消していった。現在は"水辺の学校"という名の広場になっている。ヤナギの木は残っているのでコムラサキはまだ生息しているかもしれない。
逢来橋のたもとには浦田商店という、当時農山村のどこにもよくあった食料品や生活用品を売る店があって、今でも富士宮やきそばとお好み焼きの店として続いているのがうれしい。懐かしいのでその後も焼きそばを食べに時々寄っている。足が悪いのかゆっくりとした動作で焼いていたおばあさんは今は店には出ていないが、聞いたところ元気だそうだ。
「ちゃっきりむし」も200号です。第1号の発行は1963年、前回の東京オリンピックの前の年、56年も前です。
静岡昆虫同好会の創立、会誌「駿河の昆虫」創刊号の発行が1953年、初めは報文に交じって自己紹介や会員へのお知らせなどなども載っていました。1957年と58年に、永井洋三氏によって会報と言えるものが発行されます。
(以後の会報の主な記事は静岡昆虫同好会のホームページで読むことができますので興味のある方はそちらをご覧ください)
・静岡昆虫同好会ニュース 1(1957)〔2ページ〕 ギフチョウの食草をしらべましょう(高橋真弓)、虫界時評 目にあまる新昆蟲の誤植(N) ほか
・静岡昆虫同好会ニュース bQ(1958)〔4ページ〕 俵峰で採集会(E記)、山梨県立富士国立公園博物館を見て(永井洋三) ほか
この会報は、発行のための組織がしっかりしていなかったこともあって、立ち消えになってしまった。
1963年になって会報「ちゃっきりむし」が発行される。「ちゃっきりむし」の名は、会の中心メンバーが集まった時、静岡の民謡「ちゃっきり節」をもじって「ちゃたてむし」に似せてみんなで名付けたとのこと。発行は永井洋三・石川由三氏が引き受けられたが、永井氏は徳島に赴任、石川氏は遭難されたため、井
上智雄氏が引き受けることになった。
・第1号(1963)〔8ページ〕謄写版印刷
高橋真弓:「ちゃっきりむし」発刊にあたって、井上?斑(しょうはん):「ちゃっきりむし」孵化す、ほかエッセイ等。
以後、第2号(1964)から第4号(1964)が、エッセイ・会からの連絡を中心に、短編小説・詩・漫画(にしやまちょう子=西山保典)も含め、8〜10ページで発行される。
・第5号(1965)〔24ページ〕タイプ印刷
高橋真弓:これからの地方同好会のいきかた、井上?斑:フォッサ・マグナ(1)小説〔16ページ〕、蝶の会員章が決定−'65年度総会から− ほかエッセイ等。
現在の「ちゃっきりむし」タイトル脇の会のマークは、この時応募された23作品から、鈴木芳人氏の静岡県地図に蝶を組み合わせたものが選ばれた。
第6号(1966)も24ページのタイプ印刷で発行され、会報の「駿河の昆虫」はじめ、手書きの謄写版印刷(ガリ版)が一般的だった時代、いちじるしく費用がかかりすぎた、連絡用会報としての役割が十分に果たせなかった、個人雑誌のようになったという理由で5年間の"休眠"に入る。その間の1967年6月と9月にお知らせを中心とした4ページの「号外」が発行されている。
・第7号(1971)〔2ページ〕謄写版B5版
高橋真弓:復刊の言葉ほか会からの通信・連絡を中心とし、発行・発送は駿河の昆虫と同時、2ページで年間4人の幹事が交代で編集、という方針が示され、手書き謄写版印刷で復刊し、以後1988年の78号までこのスタイルが続けられることになる。
ヒサマツミドリシジミ乱獲事件:1970〜71年、静岡市梅ヶ島において食樹のウラジロガシが採卵のため多数伐採されたことが報道される。3月に「ヒサマツミドリシジミ乱獲事件と本会の態度」として、会の姿勢を表明した。
・第12号(1972) 諏訪哲夫:同好会創立20周年を記念する行事
・第13号(1972) 清邦彦:総目次発行にご協力お願いします
駿河の昆虫1号から80号までの報文の表題と内容を紹介した「総目次」の作成を決定。編集作業のため毎週木曜日に伝馬町の喫茶店に『木曜サロン』開設。
・第17号(1974) 山根知之:またもや踏み荒らされた自然
1973〜74年、箱根山原生林においてキリシマミドリシジミ採卵のためアカガシが乱伐されたという新聞報道を受け、現地を訪ねた報告。2月に「箱根山原生林におけるアカガシ乱伐事件について」として幹事会名で本会の態度を表明。
・第20号(1974) 北條篤史:駿河の昆虫総目次ついに完成、清邦彦:山梨県に同好会の芽生え。
昆虫同好会のなかった山梨県に「山梨昆虫同好連絡会」の会合が開かれ、連絡誌「月見草便り」が発行される。やがて「甲州昆虫同好会」に発展してゆく。
・第22号(1975) 清邦彦:本栖高原の初夏
静岡・山梨県境の本栖高原では1963年7月に採集会、1964年からは6月上旬に蝶の幼虫探しを中心とした観察会を1976年まで続け、12種の卵・幼虫・蛹を観察した。本栖高原の観察会は1982年まで季節や場所を変えながら実施された。
・第24号(1975) 諏訪哲夫:「郷土の昆虫展」を開催
1975年7月31日〜8月4日の5日間、松坂屋静岡店8階で、写真や昆虫標本を生息環境別に展示。
・第30号(1977) 諏訪哲夫:蝶類食草見本園の造成
・第31号(1977) 北條篤史:その後の蝶類食草見本園
静岡市谷田の県立文化センターの敷地の一角に蝶類の食樹・食草・吸蜜植物の植栽を計画、1977年3月にトチノキ、マンサク、ユキヤナギなどを植樹した。
・静岡県周辺の蝶・謎の記録シリーズ
1978年からシリーズ「謎の記録」が9回掲載された。
1.市之瀬のヒョウモンモドキ 清邦彦 第36号(1978)
2.興津川のウスバシロチョウ 鈴木英文 第37号(1978)
3.小笠山のヒメヒカゲとイシガケチョウ 高橋真弓 第38号(1979)
4.白いベニシジミ 渡辺一雄 第39号(1979)
5.玄岳のオオウラギンヒョウモン 高橋真弓 第40号(1979)
6.山梨県のオオルリシジミ 北條篤史 第41号(1980)
7.安部奥山伏岳のミヤマシロチョウ 諏訪哲夫 第42号(1980)
8.毛無山のヒメギフチョウ 高橋真弓 第45号(1980)
9.篠井山のフタスジチョウ 清邦彦 第170号(2011)
・第44号(1980) 鈴木英文:クロコノマチョウを捜そう
・第49号(1981) 高橋真弓:クロコノマチョウ調査に思うこと
1955年から静岡県で大発生したクロコノマチョウもその後小康状態を保っていたが、1980年再び大発生した。会では1980年の秋から毎年クロコノマ調査会を行い2001年まで定点調査を続けた。
・第50号(1982)〔4ページ〕同好会幹事会:いわゆる放蝶問題について
・第51号(1982)〔4ページ〕高橋真弓:オオムラサキ放蝶その後の経過
・第53号(1982) 高橋真弓:日本鱗翅学会の「放蝶」についてのシンポジウム
1982年1月、富士宮市の小学校がオオムラサキの幼虫を育てて放すという活動が数紙の新聞に"美談"として取り上げられた。これに対し、学校訪問をするとともに、各新聞社への本誌と幹事会声明を送付した。11月の南山大学での日本鱗翅学会大会では「放蝶−自然のしくみを考える」というシンポジウムが開かれた。
・第57号(1983) 池田二三高:アサギマダラの移動
1982年秋、坂神泰輔氏によって愛知県伊良湖岬からアサギマダラが海に出てゆくことが確認され、会としても調査を行う。この調査で坂神氏がマークした個体が和歌山県で再捕獲される。
・第59号(1984) 諏訪哲夫:蝶類食草見本園を閉園
静岡県立美術館が文化センター敷地内に建設されることになり、敷地内にある食草見本園は1983年12月をもって終了された。 園内において、ツマグロキチョウ、ホシミスジ、ミズイロオナガシジミが確認されている。植栽されたトチノキ、オガタマノキ、クスノキなどは大きくなって今も残っている。
・第63号(1985) 駿河の昆虫総目次81〜120が完成しました
・第68号(1986) 伊藤哲夫:神奈川県のまん中にウスバがいた!
この頃各地でウスバシロチョウが分布を拡大、本会では1987年から富士山麓での組織的な調査会を行い1998年まで続けられた。
・第78号(1988) 「昆虫生息調査委託」について
静岡県から「昆虫生息調査」を委託される。1988年は小笠山周辺、1989年は井川県民の森周辺、1990年は天城山周辺で実施。
・第79号(1989)〔4ページ〕ワープロ製版
これまで幹事持ち回りで編集を担当してきたが、『しばらくの間』清邦彦が継続的に担当し、毎号4ページを基本とする。(このしばらくが30年)
・第80号(1989) 江間修司:鯨ヶ池公園化にあたっては昆虫への配慮を
静岡市が計画している鯨ヶ池の自然公園の計画案にはトンボを含めた昆虫類への配慮がされてない、ということで、市に要望書を提出した。その後新聞記事を読んだ方が知人と「鯨ヶ池のイトトンボ」という歌を作詞作曲された。
この年、会では、駿府公園の再整備にあたっても静岡市に要望書を提出。
・第84号(1990) 高橋真弓:引佐町の「ギフチョウ保護条例」の施行について
採集の禁止だけでなく生息地の管理や、地域を限っての指定を要望。
・第89号(1991) 引佐町ギフ保護についてのマスコミの扱い
・第99号(1994) 駿河の昆虫総目次121〜160完成
・第100号(1994) 清邦彦:ちゃっきりむし100号の軌跡 高橋真弓氏県文化奨励賞を受賞
・第101号(1994) 鱗翅学会静岡大会盛況のうちに終わる
1994年9月10・11日、県女性センター「あざれあ」で開催。140名が参加した。10日夜の松坂屋8階大食堂での懇親会には103人が出席。
・第104号(1995) 高橋真弓:県立自然史博物館設立への協力について
県内自然史関係8団体の代表者が発起人となり県立の自然史博物館の設立を県に要望する。自然史博物館推進協議会が結成され2003年からNPO法人静岡県自然史博物館ネットワークとなってゆく。
・鱗翅学会東海支部合同例会、いわゆる「夏の昆虫合宿」はこの1995年から始まる。前年の鱗翅学会大会で気運が高まったのか。
1995〜1997年:安倍川上流旧大河内村平野「にしむら」
1998〜1999年:芝川町(現富士宮市)稲子入山「天子荘」
2000年:大井川中流川根町(現島田市)笹間渡「レイクサイド明日葉」
2001〜2003年:安倍川上流梅ヶ島大野木「渓山荘」
2004〜2006年:大井川中流中川根町(現川根本町)「ウッドハウスおろくぼ」
2007年:静岡市井川県民の森キャンプ場のコテージ
2008〜2010年:富士宮市猪之頭「朝霧ロッジ」
2011年:大井川上流静岡市井川田代「白樺荘」
2012年:伊東市伊豆高原「ルネッサ赤沢リゾートコテージ」
鱗翅学会東海支部・相模の蝶を語る会・伊豆昆虫ゼミナールとの4団体合同。
2013年:大井川上流静岡市井川田代「白樺荘」
2014〜2016年:安倍川上流梅ヶ島大野木「大野木荘」
2017年:静岡市井川「井川自然の家」 道路崩壊のため中止。
2018〜2019年:富士宮市猪之頭「朝霧ロッジ」
・第107号(1996) 県よりギフチョウ生息調査委託
・第108号(1996)〔12ページ〕 清邦彦:新聞のギフチョウ報道に対して。
高橋真弓:毎日新聞社静岡支局長様、清邦彦:「ギフチョウ捕獲 後絶たず」の記事に対する私見、高橋真弓:静岡新聞社浜松総局長様
芝川町および引佐町のギフチョウ保護の記事に問題があるとして意見書を送る。引佐町の生息地は天竜市との境界にあり、当時引佐町側は採集禁止、天竜市には保護条例がない。生息調査を委託された同好会員と地元保護活動家との間で「保護」についての考えが異なり、「調査員」が「監視員」に「監視」され役場職員に「保護」してもらいながらの調査、といった錯綜状態だった。
このあたり、県外著名人からの寄稿が続いている
・第122号(1999) 木暮翠:「分布形成史の復元」への想い
・第123号(2000) 福田晴夫:ツマグロヒョウモンをよろしく
・第124号(2000) 中西元男:森のヒト、草原へ
・第126号(2000) 中谷貴壽:モンゴル、ベニヒカゲ紀行
・第128号・129号(2001) 杠(ゆずりは)隆史:人との出会い〜わが虫屋人生〜
・第127号(2001) 会則・事務局を変更 同好会新体制へ
高橋真弓代表幹事が日本鱗翅学会会長に就任したのを機に、事務局を諏訪哲夫宅に移転、合わせて会則を改定。会の代表は会長とし、高橋会長となる。
・第134号(2002) 高橋真弓:静岡昆虫同好会の50年
創立50周年、駿河の昆虫200号を記念し、「静岡県の蝶類分布目録―駿河の昆虫編―」の発行へ。
・第136号(2003) 鱗翅学会自然保護セミナー 静岡で開催
2003年8月2〜3日、静岡市駿府町の県総合福祉会館ホールで開催、70名以上の参加者があった。懇親会は松坂屋で行われた。
・第142号(2004)第143号(2005)第144号(2005) 高橋真弓:日本産ミヤマシジミをめぐる諸問題
日本産ミヤマシジミが独立種(日本固有種)かどうか検討、大陸産とは形態的・生態的に異なる点が多く、その可能性が大きいことを指摘。
・第146号(2005) 事務局:海外調査報告(別冊)を発行
海外での昆虫調査の成果の発表の場として海外調査報告「ゴシュケビッチ」を発行することとする。ゴシュケビッチは幕末に静岡県で蝶の採集をし、サトキマダラヒカゲの種名にその名が残されている。以後、次のように発行されている。
bP(2008) シホテ・アリニ山脈の蝶、モンゴルアルタイ山脈の蝶
bQ(2010) トルコ北部の蝶、レナ河中流の蝶類
bR(2013) ラオスで採集した蝶類、フィールドモンキのラオスの記録
bS(2015)スラウェシ島で採集したメイガ、ヨーロッパ8ヶ国の蝶の採集記録、トランスバイカル地方で採集した蝶類
・第152号(2007) 北條篤史:会長就任のご挨拶
創立時から54年間務められた高橋会長に代わり2007年から北條篤史会長になる。
・第155号(2008) 高橋真弓:静岡昆虫同好会創立55周年に当たって
55周年を記念して、2007年11月、写真展「モンゴルの自然と暮らし」を静岡駅南口サウスポット3階アートギャラリーで開催。創立55周年祝賀会が中島屋グランドホテルで開かれ、全国から46名が参加した。
・第158号(2008) 清邦彦:シベリア20年
モンゴル展に続き、2008年11月、写真展「シベリアの自然と暮らし」を静岡銀行ギャラリー四季で開催。
このころも、県外著名人からの投稿が続く。
・第159号(2009) 浜栄一:虫屋のスケッチ志向
・第161号(2009) 原聖樹:"静岡県産蝶類研究のパイオニア"神村直三郎の業績
・第162号(2009) 間野隆裕:日本鱗翅学会第56回全国大会よもやま話
・第163号(2010) 福田晴夫:静岡と鹿児島の虫と虫屋と同好会
・第165号・第166号(2010) 河原章人:静岡県富士宮市から10年 アメリカ合衆国で昆虫学を学ぶ(T)(U)
・第167号(2011) 西山保典:シロオビヒカゲ その後
・第174号(2012) 永井彰:ゲニタリアを調べる楽しみ
ゲニタリア勉強会は、永井彰氏の企画準備、高橋真弓氏の指導のもと、東海大学海洋学部の実習室で2004年から2013年までの10年間実施された。
・第179号(2014) 60周年記念誌できました
創立60周年を記念した「静岡昆虫同好会60周年記念誌」を2013年12月に発行。エッセイ、解説、報文など。
・第180号(2014) 諏訪哲夫:県立自然系博物館ついに設立へ
およそ30年前から働きかけてきた自然系博物館の設立運動、これまで三島の旧教育研修所、清水の旧保健所を標本の収蔵場所として利用してきたが、統合された旧県立南高校の校舎を使って「ふじのくに地球環境史ミュージアム」という名称の博物館が2015年オープンすることとなった。
・第184号(2015) 北條篤史会長逝去
・第185号(2015) 故北條篤史会長追悼号〔12ページ〕 高橋真弓:北條篤史さんを悼む ほか10名の方からのお別れの言葉。
・第187号(2016) 諏訪哲夫:会長就任のあいさつ
北條篤史会長の逝去に伴い諏訪哲夫氏が新会長に。
・第188号(2016) 静岡昆虫同好会が地域文化活動賞を受賞
長年の昆虫の研究、昆虫や環境保全に対して。自然系では初の受賞。
・シリーズ「昆虫のいた時代」。現在も継続中。
1.高橋真弓:賤機山の昔と今 第193号(2017)
2.諏訪哲夫:朝霧高原・麓 第194号(2017)
3.平井克男:私の少年時代 第195号(2018)
4.宇式和輝:谷津山から安部奥へ 第196号(2018)
5.清邦彦:身延線沼久保のまわり 第199号(2019)
・第197号(2018)「静岡県昆虫集録 駿河の昆虫編」発行のお知らせ
創立65周年事業として2018年12月発行。駿河の昆虫1〜260号の甲虫類・トンボ類、201〜260号の蝶類のデータの目録。
静岡県立静岡高等学校生物部の部誌「?生物No.6」(1965年1月発行)の『生物野外活動結果報告/櫛形山総合調査報告』の"はじめに"山梨県南巨摩郡増穂町一帯に生物調査として足をふみ入れて1年、今年は去年の調査にひきつづき、蝶、植物、甲虫、ショウジョウバエについて調査した。特に蝶ついては、5月上旬と5月下旬の"春の蝶"、7月下旬の"夏の蝶"、8月中旬の"秋の蝶"とほぼ一年を通じて調査することができた。静岡からの交通が不便なため十分な調査をすることができなかったが、いくつかの成果をあげることができたので報告する。・・・原文のまま掲載。
56年も前の話になるのでこの部誌を懐かしく読みながら、記憶を辿り,少し盛りながら「昆虫のいた時代E−櫛形山」を書いてみた。採集頭数を文章に載せるのはためらわれたが表題を証明するために部誌に載っている記録をカウントして記載した。
当時ベテラン蝶屋を多く輩出した静生物部に入り、早速夏合宿の場所決めに加わった。夜、3年生の桜井勝氏(元金沢大学副学長)等と学校近くの高橋真弓先生のお宅に押し掛け、安倍奥継続か甘利山か櫛形山か等を相談した。僕的にはベニヒカゲが多産し、クモマベニヒカゲの記録のある甘利山に魅力を感じていたのだが?
櫛形山に行くには東海道線富士駅から身延線に乗り換え鰍沢口駅で下車、徒歩で富士川鉄橋を渡りバス営業所まで、そこからバスで登山口の平林へ4時間以上の行程なので必ず1泊は必要だった。平林から氷室神社を経てキャンプ地の「祠頭」まで苦しい登りが続き5時間以上掛かったような記憶である。祠頭の小屋をベースキャンプに@バラボタン平⇒櫛形山山頂⇒櫛形牧場のコースとAバラボタン平⇒裸山⇒アヤメ平⇒唐松山のコースを4泊5日、無我夢中で蝶を追いかけた。
祠頭はクガイソウ、オカトラノオ、シモツケソウ、オオバギボウシなどが咲き乱れる明るい草原で、そのまわりをマンサク、オオカメノキ、ミズナラなどからなる林に囲まれていた。櫛形山山頂付近はシラビソ、コメツガの原生林に覆われていた。櫛形牧場への登山道の周辺にもお花畑が点在していた。
調査地点全体で非常に多く見られた蝶は本年から山梨県で採集禁止になったミヤマシロチョウである。1963年は少し早めに発生したのか♀のボロが各所でみられたが、1964年は最盛期で各地点で多数見られ、部誌の記録では175頭が記載されている。発生地の一つは櫛形牧場で開けた平地にメギが点在していた。1964年5月ヒメギフチョウ調査の折に越冬巣を持ち帰り、生物部で飼育した。食草のメギは授業終了後、天野市郎氏、片井信之氏と清水区蒲原の大丸山山頂付近に採りに行ったのを覚えている。羽化した成虫は野外品より10mmほど小さく、現在も標本は残っている。
祠頭から櫛形山山頂にかけての林縁部ではウラジャノメが多く見られ123頭の記録が、櫛形山山頂から櫛形牧場へ向かう途中の拓けた山道にはコヒョウモンモドキがオカトラノオの花に複数頭吸蜜しており124頭が、櫛形牧場ではフタスジチョウが多く56頭の記録が記載されていた。
ゼフィルス類も7月には多産しており、祠頭では夕方に頭上を横切るウラクロシジミを竹の長竿を振り廻し、空中戦で採集した。夕食準備をサボったにもかかわらず顧問の中村浩三先生や他班の仲間は文句もいわず武勇伝?に耳を傾けてくれたと思っている。合宿中全体で65頭のウラクロシジミを採集している。アカシジミは7月中下旬に発生する(羽化期は平地より1.5〜2ヶ月遅れる)と思われる。ほとんど全域で採集できるが、特に唐松山には多くの新鮮な個体が見られた。櫛形山は櫛の形をした山塊で尾根筋が比較的平らで明るい開けた所が点在していた。鹿害が深刻でない時期だったのでアヤメ平にはアヤメ畑が広がりとても綺麗だった。そこから唐松山への尾根道は適度の大きさの桜や樫類が自生しており、ゼフィルス類の好ポイントだった。アカシジミは119頭、オオミドリシジミは18頭、ジョウザンミドリシジミ25頭、エゾミドリシジミ4頭、ミドリシジミ15頭、メスアカミドリシジミ36頭、アイノミドリシジミ5頭の記録の記載があった。
当時憧れのクモマツマキチョウは丸山林道・池ノ茶屋手前のカルイ沢で1963年5月に高橋真弓先生が採集されていた。1964年5月31日、天野市郎氏と片井信之氏の三人は静岡駅発5時02分の始発電車で日帰り強行突破を図った。この時は安倍奥で採れることは知らなかったと思う。ともかくオレンジのクモツキを採りたくて採りたくて。その日はバス連絡が悪く、カルイ沢に着いたのは12時頃であった。クモツキの姿は全く見られず、前年夏合宿の時に櫛形牧場で終齢幼虫が採れた事を思い出し、牧場まで行ってみようと急いだ。牧場に着いたのは13時頃、春の蝶の行動時間は終わりに近づいていたが三人は別々に分かれ採集を開始した。櫛形牧場は山と山に囲まれ、1本の沢を中心に拓けた平なところである。牧場と言っても当時も朽ちた小屋が残っているだけ、誰もいない廃牧場できれいにカラマツが植林されていた。天気も良く温度も高かったので、歩き回るとあちこちからオレンジのクモツキがフワフワと姿を現した。あ!あそこにも!メスもいる!あたかも蝶の楽園・天国のようであった。1時間ほどで17♂11♀を3人で採集できた。当時は採集者の訪問は皆無で溜まっていたと思われる。意気揚々と帰路についたのは言うまでもない。
2006年5月、丸山林道・池ノ茶屋付近でクモマツマキチョウが採れているとの情報で40数年ぶり当地を訪れた。牧場はカラマツが成長、森林化し昔の面影は全く無くなりチョウもいなかった。池ノ茶屋付近には採集者が20名ほどいたが成果は1日1頭見れれば良いとのことであった。
櫛形山で一時ブームになったヒメギフチョウは1964年5月2・3日櫛形牧場を中心に調査したが発生が遅れていたのか牧場での1♂で終わった。翌年リベンジでカラマツ山の登山口である高尾の高尾神社付近で多数のヒメギフを採集することができた。
「8月中旬の蝶」として天野市郎氏がゴマシジミを報告している。1964年8月18・19日夏合宿と同じコースで氷室神社〜祠頭の中ほどで12頭、櫛形牧場〜丸山林道で11頭を採集をしている。
櫛形山は私にとって「蝶の楽園」として記憶されている。原生林のあいまにお花畑が点在し多くの蝶が吸蜜・飛翔していた。特に現在は姿を変えてしまった『幻の櫛形牧場』には、本年1月山梨県が指定希少種にしたミヤマシロチョウ、コヒョウモンモドキ、クモマツマキチョウが多産していたのである。
オオヒョウタンゴミムシScarites sulcatus.OLIVIER,1795 は30o〜40oの大きさで一見クワガタムシとまちがえそうな甲虫である。海浜や河川敷の砂地に棲息しているが、静岡県でも棲息地が限られ、浜松市天竜区二俣町の天竜川河川敷、御前崎市浜岡町の浜岡砂丘、牧之原市相良町の海岸のみからの記録がある。海浜の棲息環境も悪化しており、現在静岡県のレッドデータ種に登録されている種である。百貨店の松坂屋静岡店に勤務していた筆者は上司から周囲の人達と付き合うのにはゴルフが大切だと日頃から半ば強要されていた。自分としては不器用なのでゴルフなどのスポーツには向いていないと考えていたので深入りは避けていた。週一回の定休日(水曜日)は貴重な野外での昆虫調査の日だったからでもある。
運命の日1972年5月8日がやってきた。職場のゴルフコンペを浜岡ゴルフ場でやるから参加しなさいとの事で、半ばあきらめて付き合うことになってしまった。浜岡ゴルフ場はプロのゴルフコンペが度々行なわれる名門コースである。ロングホールがいくつかあり、パープレーでそこを切抜けるのは至難で、私にとっていくつ打ったかカウントするのも大変なことであった。何番のホールか記憶は定かでないが、私の打ったボールがバンカーに入った。ゴルフ場には一つのホールに到達する手前
に必ず広い穴場に砂がまかれてできているバンカーがいくつかある。バンカーにボールが入るとあとのプレイが厄介になることが多い。私にとって幸か不幸かこの場所で運命的な出会いが生じた。そこに大きな甲虫がうごめいていたからである。ゴルフどころではない。この甲虫を手でつかみ、マッチ箱かキャラメルの空き箱をさがし急いでほうりこんだ。そのバンカーから近くのグリーンにやっとのことでボールをのせて歩いていくと端の所に同じ虫、オオヒョウタンゴミムシが見つかった。まさに無我夢中の一瞬であった。もはやゴルフはどうでもよかった。
この一件から平井君は故意にボールをバンカーや林に打ち込み、虫を捜してフェアウェーに出てこないといううわさを立てられてしまった。以降ゴルフから次第に遠ざかっていったのは言うまでもない。
浜岡ゴルフ場の近くに有名な浜岡砂丘があり、ここにはオオヒョウタンゴミムシが棲息している。浜岡砂丘の砂が虫と共にゴルフ場へ運ばれてきたものと想像している。近年この砂丘も、他所から砂が運ばれたり環境の悪化が言われており、あまり見られないようである。この時の標本は地球環境史ミュージアムに保管されている。
もう10年も前になるだろうか。タイで仲間たちと虫探しを楽しんでいた時のことだった。たまたま入り込んだ小径の続く林の谷の中ほどに小さな沢があって、いくつかの水たまりが目に入った。すかさずザックから金魚すくい用のタモ網を取り出して、ここならよさそうというたまりを掬ってみた。枯れ葉などのゴミといっしょに小さなゲンゴロウがいくつも入ってきた。ボタンのようなかたちのゲンゴロウをちゃんとつかむのは意外とむずかしいものである。ツルツルすべってなかなか殺虫管の中に入ってくれない。網の中に入ったゴミの中にもぐりこむものもいたが、何匹かが突然垂直に空中に飛び出してきた。ちょうど、今はやりのドローンのように滑走もしないでそのまま真上に飛んだのである。熱帯のゲンゴロウが見せる飛翔行動なんだろうか。つぎつぎと飛び出してきたので、あわてて網を横に伏せて一匹ずつ捕まえてビンに収容することにした。ところが網の口を上側にするとふたたび何匹かが同様にぶーんと飛び上がるのである。日に当たり気温が高いとハネについている水分がすぐに蒸発してしまうので飛び立つのだろうか。こんな早わざをみせてもらえてひとり驚いていたのだった。
いうまでもなく、ゲンゴロウは水生甲虫であってふだんは水中での生活を過ごしているが、水辺そのものでない湿り気のある林の落ち葉の中からも見つかることがある。水っ気がなくってもかなり大丈夫のようである。
最近、7月下旬にラオスに訪れた。出掛ける前から覚悟はしていたが予想したように連日雨降りであった。晴れれば素晴らしい獲物が出てくるといつもの地元ラオスのガイド氏が慰めてくれた。夕方、白布のスクリーンを用意して小高い開けた場所に灯火をともして集まる虫を待っていたが、発電機が上手く動いてくれず、ライトが何度も切れてしまって、お手上げとなった。そこで、虫集めのためにゲストハウスの電源を使って2階の通路側にブラックライトを組み合わせたライト・トラップを設置することにした。こうなってしまえば、ラオス産の軽めのビールを飲みながら雨が上がるのをひたすら祈ればいいだけである。夜の更けるまで延々とムシ屋たちのムシの話が続くのである。ホテルは街はずれにあって条件はベストではないが、ライト・トラップにはガの仲間、ウンカ・ヨコバイ、カメムシの仲間、コガネムシ、カミキリムシといった種々の甲虫の仲間が、集まってくる。もちろん、ゲンゴロウも集まってくる。こうしてみてくるとゲンゴロウという虫は「出たがり虫」といえそうである。
九州の福岡県の筑後に住んでいたときのことである。地元のムシ屋さんに、クワガタムシ、それもオオクワガタの採れるところを教えてもらえることになった。しかし、シーズンオフとなっていて、せっかく詳しい生息場所のポイントまで教えてもらいながら、今夜こそという良さそうな日を狙ってみて出かけてみたものの、手にすることができなかった。残念ながら間もなく別の勤務地へ異動してしまったため、次のシーズンを狙うというチャンスもめぐってこなかった。オオクワガタはクヌギなどのウロにいて、ムシ屋というようなハンターの近づく人間の気配を知って、ウロの内側へと入り込んで外へと出てこなくなるそうである。まさしく「引きこもり虫」の代表格であるのかもしれない。
農作物につく害虫には、長距離を移動する性質をもっていることが知られている。作物の栽培地帯に入り込んで発育や繁殖を幾世代も繰り返えして、体色が黒くなったり、翅が長くなって、なにかの刺激でいっせいに飛び立つようになることも分かっている。中国大陸から東シナ海を越えてやってくるトビイロウンカのようなウンカの仲間でこのような現象が知られている。アフリカでは空を暗くさせて大陸を大群で飛ぶバッタが発生して問題になっている。しかし、いつでも飛び出すのではなく、高密度になって幼虫のときのエサ不足によって起こるためであって、いつでも「出たがり虫」ではないようだ。
地球の温暖化が、国際間の協議事項として声高にいわれるようになって久しい。それにともなって昆虫の北上化が問題視されるようになってきた。外来性昆虫がすべて「出たがり虫」ではないだろう。たまたま物流に乗っかって運ばれてしまっただけのことも多いだろうが、「引きこもり虫」が「出たがり虫」にさせられるのかそのわけをくわしく調べることが必要であるように思う。