3冊目の総目次,N0.121〜160が完成致しました.多くの会員の皆様にはこの「ちゃっきりむし」および「駿河の昆虫165号」と一緒にお届します.静岡昆虫同好会創立40周年記念と言いながら,今年はもう42年目に入ります.最初の総目次No.1〜80を発行したのが創立20周年の時でした.あの時感じた20年という時の長さに比べて,その後の20年の時の流れの何と速いことでしょうか.でも確実に時代は変わり,誰もが例外なく20歳,年をとりました.あの時編集会議に集まった伝馬町の「コーヒーカップ」も今はなく,私たちも喫茶店よりも同じ伝馬町でも「加茂」に集まるようになりました.No.200の総目次を作る日も思いの他早くやって来るのではと思うと,ああ恐ろしいことです.
今回の編集に当たっては,体裁は前回と同じにしましたが,執筆の分担はなるべく専門性を生かして,書きやすい報文を担当してもらうようにしました.その点ではうまくいったと思います.短報の方は機械的に分担したものの,書き方に不統一な面が見られるのは,十分な打合せを行なわなかった取りまとめ役である私の責任です.1994年度の会員の方には無料でお分け致しますが,余分に欲しい方,会員外の方への頒布価格は1300円(送料は会で負担します)です. (清)
静岡昆虫同好会の会報「ちゃっきりむし」は本号で100号となります.ここで100号までの歴史を振り返ってみました.
同好会の創立,会誌「駿河の昆虫」の創刊は1953年です.初めの頃の「駿河の昆虫」には総会・会計の報告の他,会員の自己紹介など親睦的な記事まで含まれていました.1956年と1957年には永井洋三氏によって「静岡昆虫同好会会報」1・2号が発行されます.ガリ版刷りの薄いものだったそうですが,現物は見当たりません.この会報は『発行のための組織がしっかりしていなかった(ちや1号)』ことなどから,立ち消えとなってしまいました.
その後会報のない状態が続き,総会の報告などは「駿河の昆虫」の報文のすきまなどに掲載されていました.そして1961年の「駿河の昆虫」36号に『会員数が多くなり,会誌の発行が軌道に乗ると,どうしても連絡用会報が必要になります』と編集後記にあるように,会報を出そうという機運が高まってきました.「ちゃっきりむし」1号の記事によると,翌1962年の総会で,会報の名前を『ちゃっきりむし』 (井上智雄氏のネーミングとか)と決定,永井洋三,石川由三の両氏が編集担当を引き受けて下さったのですが,永井氏は徳島に赴任,石川氏は冬山で遭難されたため,日の目を見ませんでした.ようやく1963年の11月になって,井上智雄氏の編集で「ちゃっきりむし」第1号が創刊されたのです.
このころの「ちゃっきりむし」は会員の投稿記事が中心で,初めはガリ版刷り8〜10−ジでしたがやがてタイプ印刷24ページとなったため,費用がかかりすぎて,当時の財政では発行を継続することができず,とうとう1966年の第6号,それに1967年の2回の号外が出たところで休刊となってしまいました.井上氏の連載小説も未刊に終わってしまいましたが,地方の高校の生物部を舞台としたもので,新入生歓迎会,夏の遠征採集会,クラブの在り方を巡っての熱い議論などの描写からは,一昔前ならどこの高校生物部にも見られた熱気が伝わってきて,小説とはいえ,当時の生物部の様子を知る貴重な資料ともなると思います.
1971年に復刊された第7号からは,2ページ(まれに4ページ)と薄くなり,内容も依頼原稿と会からの連絡が中心で,4人の幹事が交代で編集に当たりました.以後「駿河の昆虫」の発行に合わせて順調に年4回発行されてゆきます.梅ヶ島ヒサマツ事件(1971),箱根キリシマ事件(1974),総目次発行(1974),郷土の昆虫展(1975),食草見本園づくり(1977),オオムラサキ放蝶事件(1982)などいろいろなことがありました.また「静岡県周辺の蝶・謎の記録」シリーズも好評連載されました.中には興津川のウスバシロチョウ,毛無山のヒメギフチョウのように,今でも調査が続けられている「謎」もあります.
発行は順調でしたが,内容は「大事件」でもない限りしだいに「ネタ切れ」になってきました.「謎の記録」シリーズもこれを打開するための企画だったのですが….そこで編集に計画性を持たせるため,持ち回りをやめ,一人の幹事が継続して編集に当たることとし,1989年の79号から清が担当しています.手書きからワープロの4ページとなり,内容も情報的なものも加わるようになって,今日に到っている訳です.
藤枝市と岡部町の間に,びく石という山がある.休日はハイカーで賑わう.藤枝市からの登り口の一つである一之瀬の登山道入口の一角に,蝶を対象とした食草や吸蜜植物を植えはじめて,もう十年になる.いずれ老いるのだから,遊びにくる蝶と遊ぼうという発想だ.稀少種はいないが,結構楽しめる.植えてある植物にも特に珍しいものはない.
裏鬼門には,クロツバラ・メギ・ユズ・ナツミカン・サンショウ・キンモクセイなどを配し,鬼門には,クヌギ・カラスノサンショウ・キハダ・クスノキなどがある.北側には,ヤマハンノキ・ニセアカシア・タラ・アカガシその他,南側には,コナラ・クルミ・トチ・梅・楓,ツツジは,ミツバ・トウゴクミツバ・オン・アマギ・ウンゼン・コメなど20数種,その他草本類はと,まあ,いろいろあるが,僅か200余坪にぎっしり植えてあるから,夏ともなれば歩くにも苦労する.
所々にあるブッドレアには,アゲハの仲間やアカタテハ・ヒメアカタテハ・ミドリヒョウモン・メスグロヒョウモン・セセリの仲間だちなどが,争って吸蜜する.よそからは,ツマグロヒョウモンやスミナガシ・アオバセセリ・トラフシジミ,時としてコムラサキもくる.ルリタテハは,ホトトギスを食べてここで発生し,ウラギンシジミはフジに遊びにくる.テングチョウも,時期になれば榎に訪れ,秋には,アサギマダラが連れ立ってフジバカマにくる.早朝,私の車が着くと,クロコノマが一斉にとび立つ.珍客の中には,クロシジミやウラゴマダラシジミもあった.
七年ほど前,藤枝市の市民の森の開発が始まって,駐車場や林道・遊歩道が作られた.その頃から,瀬戸川東岸のウスバシロチョウはだんだん少なくなり,遂に見ることがなくなった.林道の工事現場を歩いていると,光沢のある緑色の岩石の地層があった.クロムの色である.30年も前にやったことのある陶芸を思い出して,これを使って硝薬を作って焼いてみた.黄緑の美しい色がでた.これがきっかけになって,次第に深みにはまって,小さい窯も備えた.その後,淡墨色やコーヒー色に発色する石も見つかった.
この小さな工房へ,時々蝶が飛び込んでくる.その都度,出してやらないと死んでしまう.ろくろの前に座っていると,汗のしみた膝にコミスジがとまって,そのまま長い間遊んでいることもあった.
花器や湯呑みの図柄のアイデアが,考えてもなかなか思い浮かばないと,結局は蝶の絵になってしまう.
8月下旬の県民の森での調査会では36頭しかマークできなかった今年のアサギマダラ.9月の鱗仙学会の『アサギマダラ・シンポジウム』で気勢をあげたものの,その後さっぱり…….ところがです.
10月8日,諏訪さんに誘われるまま高橋さん,諏訪さんの奥さんの4入で愛知県の伊良湖岬へ.港に車を置いて神島行きの船の時間まで岬をぐるっと回り恋路ヶ浜に行く.サシバの渡りを見に来た野烏愛好家がぎっしり並ぶ遊歩道では捕虫網を開くのもはばかられる,が,そこにアサギマダラ! 網を出して追いかけたらやっぱり「蝶を採るな!」と誰かが怒鳴った.「渡りの調査です」,みんなの監視の中でマーキングして納得してもらう,ああ神経使う.で,神島に渡り,灯台の所でマーキング.4人で200頭弱と,昨年より少なく,その一方,灯台に住み着く小猫たちは16匹.こちらは『大発生』でした.
さて,まずは10月15日の土曜日,家に帰ると伊勢の野村さんという人から電話があったという.さっそく電話してみる.子供と昆虫採集していたら捕まえたアサギマダラに電話番号が書いてあったのでということだった.つぎは10月23日,清水市のクロコノマチョウの調査を終えて帰宅したところに和歌山県の林律子さんから,市江で0542613323と書かれたアサギマダラを採ったという連絡.同じ日のマーク個体が2つも再捕獲とはと喜びつつ,林さんは同じアサギマダラ研究者だからともかく,野村さんにはお礼に「夜のお菓子・ウナギパイ」を送った.11月5日には大阪の金沢さんから学校に再捕獲データの確認の電話があり,そのとき「林さんに聞いたら他に高橋さんの電話番号の書かれたアサギマダラも採っている,これも神島で放したものか?」と聞かれ,高橋さんに確認.これで高橋さんも苦労が報われた.このところ皆さん長年の苦労が報われているのだが,肝心の金沢さんや福田晴夫さんがまだなのが気になるところ.
さて,翌11月6日は朝から雨,この日に延期されたクロコノマチョウ調査会もどうせ中止だろうと,横浜の八景島に[蝶々愛らんど一塚田コレクション]を見に行った帰りに中華街から,何か買物の注文はないか家に電話すると「諏訪さんから『去年の清さんと反対になった』と嬉しそうな電話があった」とのこと.つぎの7日に電話を入れたらやはり諏訪さんのものが今年は喜界島まで飛んだという.そこへ喜界島の旭さんから電話がかかり「諏訪さんのアサギマダラは電話が書いてあったけど,他にも『HU』と『大ア』も採っている,内田さんはご存じですか?」.そこで京都の内田さんからいただいてあった『標識原簿』を開くと『HU』は確かに内田さんが比良山から放したもの,それに『大ア』は秋山貞彦さんという方のものらしい.で,このあと内田さん,秋山さん,旭さんの間で電話が行き来し,『大ア』は生駒山から放されたということがわかった.喜界島の旭さんはさらに奈良県からの伊藤ふくおさんのも再捕獲されたというから驚きです.