静岡昆虫同好会はこの5月で創立40周年を迎えることになりました.
日本の昆虫同好会は,日本が戦争による破壊から立ち直って,食糧事情もいくらか良くなりつつあるころ,全国いっせいにつぎつぎに創立し,その後"生成消滅"をくり返しながら今日にいたっています.40年以上の歴史を持つ老舗"の地方同好会は,昆虫愛好会(栃木),神奈川昆虫談話会(神奈川),名古屋昆虫同好会(愛知),越佐昆虫同好会(新潟),倉敷昆虫同好会(岡山),鹿児島昆虫同好会(鹿児島)など,他に10指にも足りません.
私たちの静岡昆虫同好会は,1953年5月に,当時活発に昆虫の調査や研究を続けていた静岡市と富士市の高校生物部員とそのOBを中心とする若い人たちによって創立しました.
高校生物部としての活動は,当時は今日の状態とはちがって,上級生から下級生へと"昆虫文化"が継承されるという長所を持っていましたが,ともすれば盲目的な"母校愛"と他校との過剰な競争意識のために視野が狭くなり,外部に対して閉鎖的になるという否定的な傾向をもっていました.高校生物部のもつこのような長所と短所とを認めた上で,学校という枠をはずし,外部に開かれた団体を組織して,郷土の昆虫の分布・生態を明らかにしていこうというのが,創立の基本的な考え方だったのです.
当時,静岡県には遠州昆虫同好会"という先輩格の同好会があり,この会は遠州地方各地や南アルプス南部の寸又川上流の調査などで華々しい活躍をしていました.私たちはこの会で発行していだ遠州昆虫"と地域を分けあうという意味で,会誌"駿河の昆虫"を創刊したのです.
"駿河の昆虫"は駿河地方にとらわれず,全県はもとより,隣接県の境界地域にも掲載報文の範囲を広げ,創立以来年4回発行のペースを固く守りながら,通しページで4600ページに近づいています.引用文献の項に現れる本誌のページ数を表す4桁の数字は,"静昆"の歴史と実績を誇るものといってもいいすぎではないでしょう.会誌の内容は,伝統的に蝶に偏り,他の昆虫に関する記事が少ないという問題点はありますが,報文の質と密度の高さは全国的に高く評価されています.会報"ちゃっきりむじも会の事務局と会員との間の"潤滑油"の役割を見事に果たしていると思います.
それでは,これからの静岡昆虫同好会はどのように進んでいったらいいのでしょうか.本会はもともと昆虫についての研究調査と趣味の団体であり,これは会の続く限り変らないでしょうし,また変更する必要はないと思います.しかし,日本経済の高度成長にもとづく昆虫の生息地の破壊はもとより,一部の誤った自然観に根ざした昆虫採集を罪悪視する考え方に対しても,会としての立場を表明することも必要になってくるでしょう.また,私たちは主体性をもって自然環境を守る運動に参加し,また協力を惜しんではならないと思います.
現在,静岡昆虫同好会のかかえる最大の問題は,中高生など若い年齢層の会員が極度に少ないことです.これは今日の子どもたちをとりかこむ社会的環境によるところが大きいのでしょうが,このままでは30年後の本会は,"順調"にそのまま進んだとしても老化による衰弱は目に見えています.
しかし,さいわい,この数年自治体などが夏休みなどで主催する自然観察会に出てみると,昆虫に目を輝かせている小学校中・低学年の子どもたちが何人も見られ,将来へのいささかの希望を感じさせます.また若いお母さんたちの中にも,子どもたちをとりまく自然が失なわれていることに危機感を感じている人が多いことも近ごろの目立った傾向です.私たちはこのような催しにもできるだけ参加して,子どもたちに昆虫の採集や楽しさを知ってもらい,将来は本会に入会して一人前の昆虫愛好者として活躍することを期待したいものです.高校生から虫を始めるのでは,感性的にもう遅すぎて手おくれです.
創立40周年というのは,人生でいえばこれから"働きざかり"の年齢に入るところです.これからも自信を持って真の地方文化を創造するために努力を続けていきたいものだと思います.
「ちゃっきりむし」名編集長の清邦彦さんから静昆創立時のことを高橋真弓さんにきちんと書いてもらいますが,高橋さんだけでは堅過ぎると思うので,私に柔らかなことを書いてくれと言ってきた.ひどい話しである.彼は人を見る眼が無い.こと蝶の収集に関しては私の方が余程堅物で,高橋さんの戦利戦略にはとてもかなわない.清さんはきっと酒を呑むのは軟らかい奴で,呑まないのは堅い人だときめているのだろう.まあ,いい.
静岡昆虫同好会の会誌「駿河の昆虫」第1号は1953年5月に発行した.高橋真弓さんの「同好会発足に当って」で始まっている.同会発足の必然と郷土の昆虫に対する会員の姿勢と青少年で結成された青春の情熱に溢れた、いい文である.40年前,すでに自然保護と乱獲防止をうたっている.発足前の話し合いは,安東本町の高橋さん宅2階であった.メンバーは高橋さんに安藤博夫さん,細谷恵志さんが中心で会則など作っていた.そして会員17人で静岡昆虫同好会は出発した.その時の会員構或は,大学生7人,高校生8人,中学生2人である.
当時,私は安東3丁目の長屋に住んでいて高橋さん宅へは5・6分で行けたので,学校が終ると毎日通っていた.高橋さんの家は昆虫少年が実によく集まった.砂利道の突き当りの家で,まず門があって,そして玄関があった.継ぎ当てズボンの少年が目を輝かせ,その玄関を開けて「学生さん いらっしゃいますか! 北條が参りました!」大声を発すると,「ふむ,北條君かね,上りなさい」といわれて2階へ行くと,そこには仲間や「学生さん」が蝶談議をしていた.2階の北側に欄干があって,マサキの木が丁度欄干まで伸びていて花にアオスジアゲハが来ると高橋さんは網を欄干から一閃して採っていた.子供にはアオスジは速くて採れないので,欲しくて羨ましかった.
「駿河の昆虫」は3・4人で作った.謄写版に原稿を一字づつ切る仕事は高橋さんが主だった.謄写版で刷るインクを交ぜる作業はインクで手がべタベ夕になったりしたが,本当に楽し気に,新しいものを創る喜びがいっぱいだった.とにかく高橋さんの家には昆虫少年が良く集って,夜遅くまで話し込んでいた.これは高橋さんのご家族の皆さんが理解と包容力があったためだと思う.とくにお父さんがとてもおおらかで理解があった.僕たち子供に「好きな事は思い切り,一生懸命やりなさいよ」と少しも迷惑がらずにおっしゃっていた.他人の子供らが夜遅くまで騒いでいて,このように言える「父親」は今では居られまい.威厳を待った,上品で寛容な父親,本当にdecentな父親でした.
発足時から,地元の蝶の分布調査をやろうと言い合って,ウスバシロチョウを始めた.静岡駅前のバス停に集まって,それぞれ行先を定めて出掛けた.この年ウスバシロチョウの分布調査はすごい成果をあげた.5万分の1の地図で安倍川,藁科川,大井川,富士川の中流以上の茶畑をマークして徹底的に調査した.ウスバシロチョウは茶畑からよく見つかったのだ.高橋さんから「北條君,ウスバはお茶を食べているのかね」とからかわれた程だった.このウスバシロチョウの成果から静昆の仲間にはひとつの蝶の調査をみんなで集中的にやる傾向が生れた.清水市,庵原郡のギフチョウ,スジグロシロチョウのX型を探そう,クロコノマチョウの調査は1955年の大発生以来38年もつづいている.この一つの蝶について皆なが徹底して調査を続ける行動は静昆40年に根づいた伝統といっていいと思う.そして,郷土の蝶の分布調査を40年これほど継続している同好会は日本はおろか世界でも静昆のほかには無いのではないだろうか.ああ まさに高橋総督の戦略のおかげである.
いざ 出でよ 昆虫少年 起て 昆虫中年よ.
この日記の舞台である静岡市杉尾を御存知ない方の為に説明します.旧静岡市清沢村に属し,静岡市と千頭を結ぶ国道362号線と県道南アルプス公園線に囲まれた静岡市の北西30kmの山あいで,標高750mを水源とする杉尾川の上流域の村であります.周囲の山はその名の毎く杉の植林が多いが,所どころに落葉樹も点在し,いわゆる雑木林も有ります.そんな山間地の一画を切り開いて築100年経ている民家が舞台です.縁が有り小生がその民家を譲り受けて野外観察の基地に使用して3回目の夏を迎えます.短い生活記録の内から蝶に関する項のみ抜粋しました.
〇1991年8月4日午前11時(晴)
標高450mの拙宅前の杉尾川沿いのアラカシの梢高く2♂のゼフが飛んでいるが下へ降りないので種の確認は無理である.附近でキリシマミドリ,ヒサマツミドリの採卵記録があるので気になる.
〇1991年8月25日(日)曇
当地の気温は街より3〜4度低いが今日は蒸し暑かった.開け放した窓からクロヒカゲモドキ1♀が侵入する.外ではヒカゲチョウがハチクに産卵していた.アオバセセリもいた.
〇1991年10月5日(士)
毎日かなりの数のクロコノマが見られる.特に夕方になると薄暗い樹林内を激しく飛び交う.ウスイロコノマは未確認である.
〇1.992年4月2日(木)快晴
街は静岡祭りで賑わっているが,ここは静かである.昼過ぎ,日当りの良い林道士の湿地でスギタニルリシジミ1♂を素手で採集する.拙宅の庭にも飛ぶのがみられた.木種の発生時期は早い頃と思われる.附近にトチノキは見当たらず,何を食しているか知りたい.
〇1992年5月4日(月)晴
手入れの悪い自家用茶園の上を多数のウスバシロチョウが舞っている.白黒のモノトーンで地味な蝶だが日本の茶園には多色刷りのパルナよりこの方が似合うと思うのは日本人の負け惜しみかな?
○1992年6月13日(土)
当地域は,農薬,除草剤は使用しない方針の為か,野生小動物,昆虫の数は非常に豊富である.特に蝶の個体数は多い.梅の老木にオオミスジが毎年発生している.虫喰いの梅の実も収穫せねばならない頃となった.
○1992年8月8日(日)雨〜曇
杉本武氏が来荘された.生憎の雨で野外へは出られず,ビール片手に囲炉裏に座り,当地産の山魚の塩焼き,サワガニのカラ焼き,差し入れの鹿刺身と山菜で妻の作った田舎料理を食べる.杉本氏から自然回復運動について伺う.失われつつある自然を誘致しようと,20数年も昔,校庭の隅にミニサンクチュアリ作りを実践され現在では見事にその目的を成し遂げて市街地における成功例としてモデルになっている事は有名である.羨ましいことである.早く我が杉尾の雑草園も完成させねばと焦る.雨も止み,一斉にミヤマカラスアゲハが吸水に降りてきた.草地ではホソバセセリがススキに産卵行動をしていた.
○1992年10月4日(日)
貫禄のあるメスグロヒョウモン♀が家の周りを旋回している.ウラギンシジミ,テングチョウ,クロコノマ,ルリタテハ,ミドリヒョウモン,ウラギンヒョウモンが見られた.
1992年12月13日(日)曇〜雨
冬の備えの為,薪ストーブの煙突修理で屋根に昇っていたら,峠の方から一台の四駆車が下山して来た.諏訪哲夫氏の突然の来荘である.近くの山ヘゼフの採卵の帰りとのこと.土産はツクバネガシの休眠芽の回りにリング状に産卵したキリシマミドリの卵塊だった.このツクバネガシの材は薪ストーブの燃料に最適なのだ.二人で昼めしの代用食にヨモギ餅を焼いて食べる.昔,氏と大谷崩の河原でヨモギを燃やしてキベリタテハを呼んだことを想い出す.この地でヨモギを燃やしたらばどんな蝶が集まるだろう,試してみる必要が有る.
○1992年12月26日〜27日
年も詰まり仲間の有志で餅つき忘年会を行う.地元静岡からはMT,TS氏(蝶)西部からはMF氏(トンボ)とペケノフ氏が参加.残念ながら,アルコール虫のAH氏(用宗)は年末セール中で欠席.7臼もの餅をつき少々疲れる.囲炉裏端会議が夜遅くまで続き楽しい一泊だった.翌朝霜柱の解ける頃,各々餅を土産に帰宅する.良い年を迎えたい.
---------終り
今回は蝶に関した日記のみ拾いましたが,現実の山での生活は想像出来ないきびしい事が多いです.何と言っても大難問題は過疎化対策だと思います.これは個人の問題ではなく我々皆で真剣に考えて郷土を守る強い意識を持つ事だと思います.今回の選挙には,虫や動植物にも一票与えてもらいたい,宮沢さん!
「東部旧北区昆虫学日露共同研究」といういかめしい名の調査に役者不足ながら参加させていただき,7月25日から8月8日までロシア沿海州南部の主に蝶を採集・観察する機会に恵まれた.極東のアマゾンと言われながら,また日本の対岸という最も近い所でありながら,やっとここ数年いくつかのチームが調査に入ることができるようになった地域である.
昨年,天気に恵まれず蝶は全く採集できなかったにもかかわらず受けたサハリンのアルギ・パジやツィモフスコエ〜ポロナイスクの夜行列車から見た広大なレソツンドラ(森林ツンドラ)の強烈な印象に匹敵するものを,実は今回の旅行では受けなかった.たぶん,多少の種類の違いはあるものの,落葉広葉樹林,オブラーチナヤ山の針葉樹林・ハイマツ帯・高山草原・岩れき地,ラゾヴィー山地のカシワ・ミズナラの疎林・高茎草本群落等,極限られてはいるけれども私の活動範囲の南アルプスや富士山麓といったフィールドとよく似た自然景観だったからであろう.
にもかかわらずそこに見られた蝶の種類の豊かさ・多様性には一転して驚かされる.天候にむしろ恵まれず,最盛期は既に過ぎていたと思われるにもかかわらず,全員で110種を越えている.人口70万を越えるウラジオストックの市街を僅かにはずれた研究所の裏山の雑木林にコンゴウシジミが乱舞し,ミヤマシロチョウとエソシロチョウが混棲し,オオゴマシジミ・ゴマシジミ・カバイロシジミ・アサマシジミが一緒に採れる.イチモンジチョウ属が8種も記録され,コムラサキの仲開か5種もいて,・……などなど.
大シホテアリン山脈の峰々,ウスリー流域の大湿原周辺,源流部の渓谷,原生林から民家裏の雑木林,シベリア鉄道沿いのちょっとした草地まで,周年観察してみたい,たくさんの魅力を持った地域である.これからロシアが混乱を脱して,外国の一日本の資本が参入して,この地域がどんな開発のされ方をするのか分からない.生き物にやさしい開発のあり方について議論する余裕がはたしてあるかどうか,私には分からない.けれども,素敵な蝶達がいつまでも乱舞する沿海州であることを願ってやまない.
著者堀勝彦氏は1935年生れで「高山蝶」の研究家としてばかりでなく,写真家としても登山家としてもよく知られた人である.中学2年のときに「高山蝶」の魅力にとりつかれ,今日まで北アルプスを中心とした日本列島はもちろんのこと,ネパール・ヒマラヤ,中国のチペットや青海省などへも遠征して「高山蝶」の生態研究にとり組んでおられる.
さて,この本は,I.高山チョウの魅力にとりつかれて,U.高山チョウの発生と分布,V.高山チョウの生活史,IV.世界の高山チョウの4章から成る.著者自身が実際に山を歩いて観察した事実にもとづいて,ユニークな視点で「高山蝶」の分布や生態が生き生きと描き出され,しかも豊富な海外登山の経験から,「高山蝶」を日本という狭い島国だけからではなく,世界的にとらえている点もこの本の特徴といえるだろう.
この本の内容でもっとも注目されるところは,タカネヒカゲの「北アルプス産と八ヶ岳産は別種」とした部分であろう.八ヶ岳産は成虫の斑紋以外に,卵の形態も示された写真で見るかぎり北アルプス産と明らかに異なっており,また生息地の性格や成虫の行動にも差が見られるという.
著者は,村山修一氏の見解にしたがって,日本のタカネヒカゲはホッキョクタカネヒカゲOenesis norna の一亜種ではなく,独立種としており,その結果,日本にはタカネヒカゲ属の2種の固有種が分布することになる.この問題については,いずれ詳しい観察記録にもとづいた正式の報告が必要となるが,それにつけても,現在大きな障害となっているのは,1975年に長野県が制定した「高山蝶」採集禁止の条例である.採集禁止にしておきながら「高山蝶」を守るための調査をまじめにやろうとしてこなかったこれまでの行政のやり方には,心からのいきどおりを感じる.
「近代科学は,昆虫採集や植物採集に熱中した幼い探究心から始まった」と信じている著者に,私は深い共感を覚える.
〔1993年4月,信濃毎日新聞社発行,1700円〕 (高橋 真弓)