1964年,会報として"ちゃっきりむし"が創刊されたが,1965年にNo.6が発行されたまま,その後,"休眠"に入ってしまったのである.その理由はいろいろあるが,そのおもなものは,(1)当時の会の能力からみて,いちじるしく費用がかかりすぎたこと.(2)連絡用会報としての役割が十分に果せなかったこと.(3)内容が個人雑誌のようになったという批判が強かったこと,などである.
その後の5年間,本会では会報が発行されないまま,やや変則的な会の運営をしてきたが,1971年3月27日の総会で,"ちゃっきりむし"を連絡用会報として復刊させ,会の運営を一層円滑にしようということがきまったのである.
編集の方針は,会からの通信・連絡を中心とし,また,会の運営についての会員の意見を反映させることにも気を配りたいと思う.発行は,"駿河の昆虫"の各号と同時におこない,同時に発送をおこなうこと.また,ページは2ページとし,年間4人の幹事が交代で編集をおこなうことになった.
今度こそ"ちゃっきりむし"を休眠させぬよう,幹事一同,がんばるつもりです.皆さんのご援助・ご協力をおねがいします.
大人になっても昆虫採集をやっている人には必ずある思い出の一つに,「虫ヤの集い」があると思う.私も子供の頃,山で知りあった「学生さん」の後について行き,以後毎日「学生さんの家」へ通った.「学生さんの家」へ行くと大勢虫の好きな人が来ていて,冬の蝶のいない日でも,蝶を採っている時のように楽しかったことを思い出す.
ところで,最近は同好会と名のつく会は無数にできたが,子供たちを本当に夢中にする集いはほとんど聞かない.同好会の会合でも,多くの子供たちは隅っこで黙りこくっている.子供たちは,本当は一日中虫の話をしたいのだ.そして未知の山の話を聞きたいのだ.彼らは未知の核であるから.
そうした時,東京の昆虫用具店に,「虫ヤの集い」が生れた.そこのオヤジの動機は単純なものである.毎日,買いに来る子供たちは,勉強時間を忘れて,オヤジに虫の話を聞かせるそうである.そこで,毎日来る子供たちを月1回集めて子供たちに聞かせてやったら喜ぶだろうということである.早速,オヤジの親友の虫ヤの青年と二人で,案内状をつくり実行した.子供たちは,たった30円の会費で菓子を食べ,話に聞き入り,自分たちも夢中でしゃべりあったそうである.さらに,大きな虫ヤの会では顔しか見ないエライ虫のオジサンたちが、そのオヤジの人柄に魅かれて,子供たちと話をしたり,聞いたりして目を輝かせているそうである.この集いは,一年をむかえる.その集いの内容は,子供たちの話しあったテーマを、オヤジサンたちがまとめて,房総の共同調査にまで発展した.
私にはこのちさな集いが自然と人間とをつなぐ忘れられた試みのように思える.私の実に敬愛する友人でもあるこの集いの幹事さんに熱い感動をもって協力しようと思う.
"駿昆"とは一体何か.
東京から手軽に採集旅行できる静岡.その土地の採集案内、昆虫情報を提供する雑誌だというならそれもよかろう.昆虫保護の是非について論じられている折だが,森林盗伐のような犯罪行為は別として,ネットで採るくらいで滅びる昆虫はほとんどいない.日曜日に青い空の下でストレスを解消し,月曜日からビジネスや勉学に励んでいけるなら,"駿昆"は喜んでもっと楽しいレジャー雑誌にしていきたい.編集者は,喜んで読んでもらうことに生きがいを感ずる.
ところが,"駿昆"は学術雑誌だというのなら,話はガラリと変ってくる.いやしくも学問という以上,結論のない論文がどこにあるだろう.調査や実験の方法も,今までの記事の大半がオソマツすぎる.おそらくこれまでの筆者の方々は科学論文として本誌に投稿されたのではないからだ.
では一体何だ,ということは皆さんに考えていただく問題だが,せんえつながら私の考えを紹介させてもらうと,"静岡県とその隣接地域の昆虫類を中心とした自然研究サロン"をビジョンにしている.学会などという厳めしいものでなく知識交換のサロンである.このサロンも漠然としたものでは行きちがいが生ずる.だから,"ギフチョウはなぜ小笠山にいないのか"とか"ヘドロの海岸ではイエバエが多くならないか"とか"鶴ヶ池のヨツボシトンボを守るにはどうしたらよいか"など,具体的な問題を出して,ディスカッションしていったらどうだろう.調査を始めるならグループをつくってもよし,小委員会を開催するもいい.
学会に対してはアマチュア的,中央に対しては地方的な,この静岡昆虫文化を静岡という風土の上に立脚して育て,咲かせてみせたいものだが,いかがでござろう。おのおのがた!