松本零士2)のコミックが好きな虫屋は割合多い.主要キャラ,メガネ短足ガニ股怪人の四畳半的ビンボー暮らしが,蝶屋の主戦世代(昭和20年代生まれ)にとっで我が青春の学生下宿”にダブったり,ずらりメーターが並ぶ構図のコマに代表されるメカ・フェチぶりが,フェチシズム3)の地平線に身を置くコレクター心理と共鳴したりするらしい.戦場ものの短編を編んだ“ザ・コクピット"シリーズは小学館文庫にも入っている.その近作“コクピット・レジェンド”への週刊誌書評に「軍事オタクすれすれが,かつて男の子の一般教養であった」という一文があり,プラモ4)世代としては,うん,それも分かる,ワカル.
“ダーク・ブルー”(Dark blue world, ヤン・スヴィエラーク監督・2001)の予告編には,だから「スピット・ファイア5)が飛んでてかっこいい,観たい!」と,予備知識なしでも反応してしまう.ナウシカ6),もののけ姫7)など一連のエコ・アニメで虫屋にも関心高い宮崎駿率いるスタジオジブリの提供映画1作目.英国空軍に参加してバトル・オブ・ブリテン8)を戦ったチェコ(国はドイツに占領されている)の戦闘機パイロットの話.飛行機乗り,男の友情,一人の女というキイワードでくくると”紅の豚”(宮崎駿監督・1992)です.あんな軽やかな内容ではなくて,主役(?)のスピット・ファイアも低翼単葉機だけど,冒頭チェコ空軍基地のシーンには複葉機−ポルコ・ロッソ9)が乗っていたようなの−もでてくるし.
パンフ所載の新聞評には同じ第2次大戦ものの“パール・ハーバー”(マイケル・ベイ監督・2001)との引き比べが多いけれど,あんなのとの比較でホメられてもスタッフは嬉しくないかも.そういえば週刊誌の映画評で,パール・ハーバーはしょもない映画で,ただゼロ戦の爆撃10)シーンだけカッコイイというのがあり,零式艦上「戦闘機」が真珠湾で爆撃なんかしたんですか!と,軍事オタクすれすれとしてはつっこみを入れたかった.
ところで,この映画を観るため年末名古屋での鱗翅学会東海支部総会後の懇親会を抜けたもので,その後何人かの人に「急に消えたりして,どうしたンですか!?」と訊かれてしまった.私にしても,お酒飲むより優先すること11)のひとつくらいは,まあまあある訳で….
注)
1)中西元男……三重だんごむしの会「ひゃくとりむし」編集長.静昆新年会飲み会の出席率は県内会員より高い.
2)松本零士,メガネ短足ガニ股ギャラ……昭和29年デビューのマンガ家.「男おいどん」(登場キャラクターの典型),「宇宙海賊キャプテンハーロック」「銀河鉄道999」など作品多数.
3)フェチシズム……特定の事物に異常に執着する癖.
4)プラモ……プラスチックモデルの略.細かい部品を組み立てて作る模型キット.ゼロ戦や戦艦大和が売れすじ.田宮とかレベルといったメーカーがメジャーだった.
5)スピット・ファイア……第2次大戦時のイギリス空軍主力戦闘機.
6)ナウシカ……“風の谷のナウシカ宮崎駿監督 1984.
7)もののけ姫……“もののけ姫”宮崎駿監督 1997.
8)バドル・オプ・ブリテン……第2次大戦中の1940年7〜10月イギリス本土制空権をかけた英独の空の戦.
9)ポルコ・ロッソ……紅の豚の主人公.
10)ゼロ戦の爆撃……爆装ができないこともないらしいが,用意万端の真珠湾で,わざわざそんなことをやらせたとは思えない.
11)酒より優先すること……目標! 年間劇場映画観賞36本.
今年は50周年のはやる年らしい.テレビ放送50周年やエヴェレスト登頂50周年などの番組がテレビを賑わしている.テレビには出なくとも私達の静岡昆虫同好会もめでたく50周年を迎えた.3月末ころ重いユーパックが届き,中から本会の創立50周年の記念出版である「静岡県蝶類分布目録」(諏訪哲夫編著)が1368ページという部厚いものになって現われた.
これは会誌「駿河の昆虫」に掲載された記事からチョウに関する記録を悉く網羅したもので,種類別,市町村別の記録とこれを地図上に示した分布図からできている.変化の著しいものは1970年以前,1970〜1990,1990年以降に分けて示されているので,分布の変化が驚くほどはっきり示されている.この会のメンバーになって10年ほどの私にとって,このような記録をこつこつと積み上げてきた会員の努力と,全部で5千ページを越える会誌の記事から記録を整理された諏訪哲夫編集幹事の努力にはただ頭が下がるのみである.
全国的に見れば昆虫同好会は数々あるが,このような半世紀に及ぶ膨大な記録を集大成したものは見たことが無い.ことに近年里山の消滅や地球温暖化によって環境変化が著しいと云われるが,これを具体的に示す貴重なデーターが豊富に含まれている.
例えば,私の住む旧清水市には現在ギフチョウはもう見られないが,以前は山原や宍原に見られた.何時ごろまで見られたかは,この本でギフチョウの項から清水市を引けば一目瞭然である.また,地球温暖化の現れとされるナガサキアゲハやクロコノマチョウが何年から記録があるかも,すぐに判るように編集されている.
そこで環境行政にたずさわる人は勿論,環境教育など環境にかかわる仕事に興味のある方は是非じっくりこの本のデーターを勉強して欲しいと思う.
ただ,静岡昆虫同好会に何故このようなユニークな企画が実現したのか? という点を考えてみたい.
創立の頃,1953年(昭和28年)はチョウに関する情報も図鑑も極めて貧弱な時代だった.新昆虫という雑誌があり,ここに岩瀬太郎氏が同好会月評という連載記事があって各地の動向を知る手がかりとして愛読する時代だった.このころには現会長の高橋真弓氏の報文が載っていて,私がその頃所属していた仙台昆虫同好会誌にも投稿していただいた記憶がある.白水隆氏が1958年に北隆館から出版した「日本産蝶類分布表」の静岡県の記事を見ると高橋真弓会長ばかりでなく北條篤史・諏訪哲夫氏など現在本会の幹部として活躍中の方々の名前が沢山でてくる.これは1985年の「日本産蝶類文献目録」(白水隆編)をみても同じで,静岡昆虫同好会は創立以来中心メンバーが健在のまま半世紀を越えてきたということができる.これは他の同好会には考えられない珍しいことであり,多くは中心メンバーが変わり,創立の趣旨が薄れて活動が下火になるのが普通なのに,静岡では地元に多くのメンバーが長期に根を据えて,半世紀にわたる活動が持続しだからこその成果だと思う.
昨年「新・栃木県の蝶」という本を手に入れた.西暦2000年の記念出版で1975年の「栃木県の蝶」の改訂版であるとされ,総論はスギタニルリシジミの生活史解明で有名な葛谷健氏が書かれ,豊富なデーターが盛り込まれている.この序文を書いた中村和夫宇都宮大学名誉教授が栃木県蝶類研究史という項目を載せ,創立の頃からこれまでは学生サークルは活発な活動をしていた. 1961年には36%もいた小中高生の会員が1999年には僅か3%になっていて,現在この会から若い人たちが昆虫研究者として育っていく情勢ではない.今回25年振りに栃木県の蝶を改訂したが,これが次の改訂を迎えるとき,どんな執筆陣になるか予想もつかず,今後の若手育成が大きな課題になっていると結んでいる.
静岡でも,学生時代から活躍を続けて来られた中心メンバーには深く敬意を払う必要があるが,若いメンバーを集め,この人達の活動を育てることが大切なのは同じであろう.
環境についての関心が高まっているが,チョウも昆虫も環境指標種として重要な価値があることを理解し,若手の参加を呼びかけたいものである.このような活動の拠点として静岡県に自然史系の博物館の実現も待たれるところである.
インドシナ半島の最北部にゆくのは体力的に今が最後だろう.しかも2ヶ月ちかく雨期の密林と峡谷を歩くのだ.日本での不安はヤンゴンに着いて,隊長の笑顔に会って希望に変わった.早朝,ヤンゴンを発ってミッチナー空港に降り立つ.ブーゲンビリアの花咲く,ちいさな空港である.ミッチナーはカチン州の首都で,ミャンマー最大の大河エーヤワディー川(イラワジ川)が悠々と流れ,15メートルにもおよぶマメ科の大木の街路樹で緑におおわれた静かなる街である.人びとも静かで笑みをたたえている.蝶は亜熱帯系で,オナシアゲハ,クロテンシロチョウ,タイワンモンシロチョウ,ジャノメタテハモドキなどが見られた.翌日,インド国境のナガヒルに向かう.
一週間かけて,インド国境にたどり着く.橋のない川をジープで渡渉をくりかえし,雨期でどろんこの泥濘路をスタックしながら,ナムレとゆう少数民族のちいさな村に着いた.学校の先生がご自分の家を空けてくれ,泊めていただく.子供たちが遊んでいる.男の子は棒を振りまわして,豚や羊を追いまわして笑いあっている.女の子は赤ん坊をおんぶしてかあさんと語らっている.わたしは突然になつかしい感情がこみあげた.小学校にあがる前,戦争で信州の村に疎開したときの風景がよみがえったのだ.藁草履で竹竿を振りまわしてオニヤンマを追った子供の自分は目のまえで動物を追いまわしている子供と同じだと思った.自然と同化している子供たちの明るい顔とかがやいた目は間違いなく自分が空腹を忘れてトンボを追ったときと同じだと感じた.夕方深い森に囲まれた村に霧がおりてくる.女性は火をおこし夕餉のしたく,男は一日の仕事の片付け,子供は家畜と家路に帰る.ここでは人が家畜と共生するのではなく,人と家畜とが自然の中で同化している.驚いたのは,犬,豚,牛,山羊,鶏たちがまったく喧嘩することなく草を食べたり寄り添ったりしていて,人も同じように暮らしている.
インド国境への最後は,象に乗ってゆきました.乗った感じはかなり高くて恐かったが,慣れてきたら象のうえからネットを振ってタイワンモンシロチョウが採れた.村から村への長い峠からの山道で重い荷物を背負った少年とすれちがった.毅然と振り返った少年の汗だらけの真摯な顔とキラリと澄んだ瞳が忘れられない.樹高の高い原生林の川辺には多くの蝶が吸水に来ていた.真っ赤なベニシロチョウの集団(ここの本種は大型だ)にチャイロフタオ,ルリシジミの仲間,また別の集団ではアオスジアゲハ,ミカドアゲハ,オナガタイマイなどのグラヒュウム属の大吸水.林縁にはムラサキマダラ,アサギマダラの仲間とそれらに擬態しているアゲハの仲間が乱舞していた.雨のなかやっとの思いで,インド国境のバンサン村に着いた.国境は軍人もいない無人で,現地の人びとは自由に行き来している.ここでは,ナガヒルの幻の蝶オナシカラスアゲハを狙ったがやはり幻に終わった.三日間の調査を終えて,ミッチナーヘ戻った.
ミッチナーに戻り次の調査地である,中国国境へ雨期のなか出発する.道路はインド側より悪路で,泥濘路と崖崩れで車をおいて雨の夜を歩いて作業小屋に泊まったら夜中じゅう小屋のまえで落石があって恐怖で眠れなかった.翌朝,チプイ村まで歩いてゆき車の到着を二日待った.村を流れるマイカ川は雨期で物凄い水量の濁流で恐ろしいが村人が1メートル以上もある鯉を丸太にさげて来た.蝶は少なく,アオスジアゲハ,タイワンモンシロチョウが飛んでいた程度だった.中国国境のパンワとゆう町に夜遅く着いた.この町は中国雲南省が制していて,ホテル,賭博場,商店,食堂など中国人の経営であって,言葉も通貨も時間もすべて中国である.町はインド国境の村と比べて人や家畜も多く繁栄をみるが,人と家畜の共生はなく市場では商売喧嘩があり,夜中までホテルでも大声で騒いでいる.このパンワだけでなく,他のピマウ,カンファンの町も同じであった.人はうるさく喧しく町は汚くゴミだらけである.人もカチン人,ミャンマー人,中国人だが一見して分かる.カチン,ミャンマーの人は静かで大声をあげないでおとなしい.中国人は大声でわめいて,ツバは吐くしマナーが悪い.国境の警備隊はミャンマー側と中国側とにいるが,中国の警備隊は皆サーズの影響でマスクをしていたのには笑ってしまった.蝶は雨期にもかかわらず多くの種類が採れた.ゼフィルスが8種,モンシロチョウ属はモンシロチョウ,タイワンモンシロチョウ,オオモンシロチョウ,エゾスジグロシロチョウ,オオスジグロシロチョウの5種,そして現地でオオスジグロシロチョウの食草が見つかり,タイワンモンシロチョウ,エゾスジグロシロチョウが共通の食草(タネツケバナ)に産卵していました.他には,タカネクジャクアゲハ,ルリモンアゲハ,モンキアゲハ,クロアゲハ,オオベニモンアゲハ,カザリシロチョウ,ウラフチベニシジミ(青,緑,赤色の3種),シジミタテハ,オオヤマミドリヒョウモン,スペインヒョウモン,ウンナンオオミスジ,ネオペヤマ,ヒカゲチョウ属5種,セセリチョウ科6種など良い成果があがりました.帰りカチンのタントン村で小学校の軒下でずぶ濡れになって雨宿りをしていたら,若い女性の先生が授業を中断して魔法瓶に熱いお茶をいれてくれました.国境の2500メートルの峠では雨のなか真っ赤なシャクナゲの花が霧にくるまれて咲いていた.その下を,オオスジグロシロチョウが真っ白な姿で舞っていた.
2003年7月下旬,浜松近在の蝶大好き5人組,大石勝氏を隊長とする白井和伸氏,鈴木利和氏,新村勝美氏と私で採集調査旅行をすることにしました.ユーラス・ツア―ズ片倉正晴氏の丁寧な助言を頂きながら,採集地,ガイド,行程等を全てE−mailにて連絡を取ることを予め決めました.採集調査を終えてからも,このE−mailでの情報連絡は好都合だったと思えました.日記のように思いつくまま綴ってみました.
7月18日(金) 城内・大石の2名は新潟に前泊.白井・鈴木・新村の3名は東京池袋からの深夜バスで,19日朝7時までに新潟駅に集合することになった.
7月19日(土) 曇天の新潟空港を11時過ぎに離陸して15時前に大雨のウラジオストーク空港に着陸.ここでトラブル発生.諸手続きを終えてロビーに出たものの,迎えが来ない.ロシア語もできないし,連絡先も教えて貰ってなかった.諦めかけた頃にミハイル氏とエリカ夫人が2台の車で現われた.しかし通訳のアンドレイ氏は未だ到着しない.ともかくウスリースクのホテルまで行かないことにはどうしようもなく,出発.台風並みの大雨の中を移動し,夕方17時過ぎにホテルに到着した.言うまでもなく,採集はまったくなし.アンドレイ氏は夕食時にはエリカ夫人と連絡がとれて,到着.まずはひと安心.
7月20日(日) 小雨の中をホテルを後したものの車のドアの故障修理のため午後1時の出発となり,ハンカ湖近くのカメニ・リボロフ市内のホテルに3時過ぎに到着.暫らく休憩してからジャリコボ方面を明日以降の採集に備え下見をしたが,雨降りで何も採集できず,単なる下見に終わってしまった.ホテルに戻る頃に雨が上がったのでハンカ湖畔に出た.子供達が水浴びを賑やかにしていた.
7月21日(月) 曇天の朝,国境警備隊の立入り許可の確認が有って10時過ぎの出発となる.結局,出遅れた分遠くまでは行けなくなり,昨日の下見した所,ジャリコボ西側でネットを振った.環境は足元が湿った疎林と湿った草原.林にはハンノキとヤナギが多い.見られた蝶はヒメシロチョウ,ジロジャノメ,コムラサキがとりわけ多く,キマダラモドキ,ヒメヒカゲと小型ヒョウモンが見られた.ヒメシロチョウは2種類あり,他にダイミョウせセリ,ホシチャバネセセリを白井が確認している.
ジャリコボ北方に移動してからモンゴリナラの林でゼフィルスを狙ってネットを振ってみた.足元が悪く,なかなかの苦戦を強いられた.ダイセンシジミ,ウスイロオナガシジミ,ミズイロオナガシジミを見ることができた.更に場所を移動して,シニ山南側の峠に行く.峠道の両側は,モンゴリナラを交えた常緑樹・落葉樹の混交林で,草地もある環境である.天気も良くなって来て,エンジュの類だと思われるマメ科木本の白い花にゼフィルスが吸蜜に来ているのが見つかり,暫し楽しいネット振りを味わうことができた.道路上でヘリグロチャバネセセリ.オオヒカゲ,ヒメシロチョウ,シロジャノメが林縁を飛ぶのが見られた.またシロモンコムラサキが運の良い人だけは複数頭採集されたらしく,まったく見ないメンバ―もいて話題になった.また,峠付近の養蜂家から「蜂蜜ジュ―ス」と称する「蜂蜜のウォッカ割り」が振舞われ,メンバ―中酒が飲めない新村氏が潰れてしまい残念なできごとになった.
7月22日(火) 出発時は曇天.実質的に採集調査第2日目は,ジャリコボから西,ストウジョナヤ川沿いの道を西へ,国境方面まで行けるだけ行ってもらうことになる.集団給水しているミヤマカラスアゲハ,エゾスジグロシロチョウ,コムラサキ,イチモンジチョウ類を蹴散らして,車を国境付近の立入り限界あたりまで進め,そこから歩いて戻って1時間くらい後で拾って貰うことにした.環境は沢が林道を横切り,小規模の草付きのある森林地帯である.カバイロシジミ,アサマシジミが見られた.1本の林道沿いを調べたものの,林道を横切っている小川べりは特に蝶の個体数は多いが種類数は少ないので,採集をそこそこにして移動することにした.
ドゥホブスコエ南方で,疎林に覆われた崖が眼にとまり,3人は崖上へ,1人は崖下へと,てんでにネットを携えて行ったが,パルナシウスが採れる筈もなく戻って来た.それからミハイル氏が私たちに見ておいて貰いたい所が有るとのことで,国境の町ポグラニツィニに向かう.途中の道筋は順調ならば20日に下見を兼ねて行くつもりのネステロフカ川支流を横切る道であるが,周囲は耕作地ばかりで採集適地とは言えない環境であった.地図で見て考えた環境とは程遠いものだった.
7月23日(水)。ハンカ湖西側の丘陵地帯の採集調査が十分できていないのが少々不満であったが,移動距離を考えて東へ向かって移動した.スパスクダリ―二に向かう途中,ハンカ湖南の低地で耕作地が多く,シロジャノメ,エゾヒメシロチョウが堤防の草地で見られる程度であった.またグリブナヤ川沿いの林道にも入ってみたが,モンゴリナラがあるものの道幅が狭く暗い.曇天を差し引いても,ミドリシジミ類が活動するにはもう少し明るい空間が欲しいが,地図では他に良さそうな道がないので仕方がない.クロヒカゲモドキがいたが,ハンカ湖西側の個体と比べると,翅の傷み具合からして,こちらの方の発生が幾分早いようである.
昼食後,スパスクダリ―ニヘの道へ戻ったが,途中鉄道沿いの道に入り線路敷あたりに狙いをつけたが芳しくなく,見当をつけた所はブリャンキ部落の外れにあるのだが,踏切の修理がいる上に,軍の施設も近くにあって採集していられるような雰囲気ではなく引き返すことになった.その頃から雨が降り始め致し方なく,アンドレイ氏曰く極東一汚い街,スパスクダリ―二に戻った.
7月24日(木) 今日はポクロフカ奥の林道を目指したが,案内役の地図の読誤りから狙いが外れてしまったのが悔やまれる.狙ったポイントは沢沿いの道だったが,案内されたのは流れから離れた暗い山道だった.その日はアルセニエフのホテルに投宿することとなった.
7月25日(金) 採集時間がとれる最後の日である.移動距離が一番長いので,ポイントを探しながら移動するのはやめて,1時間走って15分採集を兼ねての小休止,環境が良ければ多少延長することにして出発.ミハイル氏の予定では幹線道路で南下するっもりだったが,蝶の採集には何にも面白くないので東側の道,シホテアリン山脈の西はずれ,山というよりは丘陵を貫く道を南下した.曇天で気温は低くとても採集どころではないので最初の休憩地点では,すぐに再出発.次のモンゴリナラ林が点在する所で停車し,多少のゼフィルスを採集.白井氏はエンカイオオミドリシジミが採集できた.次の停車地点では昼食をとりながら採集.シロモンコムラサキ,コンゴウセセリが薄く陽が射す曇天ながら採集できた,蝶の顔ぶれはハンカ湖西側と同様で,しかも頭数も少なかった.それからは幹線道路に出てしまい,いいモンゴリナラ林が見っからず,結局アルチョム市街に入ってしまうことになった.
振り返ってみると,天候に恵まれなかったこと,時期が遅かったこと,それより何より特にミドリシジミ類と草原性蝶類の良いポイントを捜し当てられなかったことが,不振な結果の原因と思われる.市内で多少の買物をして,空港直前のベニスホテルにチェックインする.新しく,設備も整ったホテルである.
7月26日(土) ベニスホテルのロビーでウラン・ウデの調査をしてきた,木暮翠氏一行と会うことができ,ホテル前で記念撮影をして帰路に着いた.私達は空港へ,木暮隊は最終日の調査に出かけて行った.10時30分発の飛行機は日本時間10時に新潟に到着.全員無事4時に浜松に戻り,今年のロシアでの採集調査を終えたのでした.
[白井和伸氏の採集備忘記録を参考にしました]