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<Web ちゃっきりむし 2024年 No.219-222>

● 目 次
 清 邦彦 西表島のモンシロチョウ(No.219)
 瀬下亜希 靜岡県立森林公園のハッチョウトンボと湧水湿地(No.220-1)
 諏訪哲夫 西表島のモンシロチョウに関しての続き(No.220-2)
 片井信之 東京農工大学 日高研究室の思い出(No.221)
 鈴木英文 南のヒカゲと北のスジグロ?(No.222)

 ちゃっきりむし No.219 (2024年3月)

 西表島のモンシロチョウ 清 邦彦

 二人の友人を誘って沖縄の西表島に行ったのは1966年の2月、動物文学作家の戸川幸夫氏がイリオモテヤマネコを発見した翌年だった。そのいきさつなどを書いた著書「原始の島−日本の最南端・西表−」が出発直前の1966年1月、新潮社から発刊された。見出しの"密林の大河""死の追跡""夜明け前の国"などの文字が探検気分を高揚させた。

 あの頃の沖縄はアメリカの統治下にあって日本でも外国でもなかった。外務省の発行するパスポートに代わる総理府の身分証明書、ビザに相当する英文での入域許可証、その発行のための身元引受人、保健所での予防接種と免疫証明書、そして米ドルが必要だった。

 1966年2月18日、富士駅から寝台急行列車「霧島」に乗って翌日の午後西鹿児島駅着、磯浜ユースホステルに泊まった。翌朝鹿児島港に行くと免疫証明書に保健所長のサインがないと言われ、急いで鹿児島の保健所で再度種痘を受け、ようやく琉球海運のひめゆり丸-その後フィリピンでクリスマス帰省の乗客たちを乗せたまま沈没したと聞いた―に乗船する。翌2月21日の昼頃ようやく那覇港に入港、入域手続きを終え泊港近くのユースホステル春海荘に荷物を置いた。

 街を散歩した。崇元寺の石門の前でモンシロチョウを1頭採集した。沖縄での最初の蝶がモンシロチョウだった。車は右側通行で道路横断の時はつい右を先に見てしまう、バスに乗ろうと左側に行くとドアがない。ドルは弗、セントは仙の漢字が当てられていた。ケネディの横顔が刻まれた50セント硬貨も使われていた。食事の麺は今の沖縄そばの麺と似たようなものだったが、焼きそばもラーメンも日本蕎麦もスパゲッテイもみんな同じ麺だった。

石垣島までは途中寄港した宮古島でウマを積み込むのに手間取ってたぶん27時間はかかった。翌日は対岸にある竹富島に、次の日は石垣島の好採集地バンナ岳方面に行き、各種マダラチョウやツマベニチョウ、コノハチョウなどを採集して沖縄の蝶を満喫した。

 西表島に渡ったのは2月の28日、小船で3時間かかった。大原の小学校の宿直室に泊めてもらった。周囲の民家は茅葺き屋根、電気が通るのは夜の7時から10時の間だけなので子どもたちは夕方の7時まで外で遊んでいた。夜散歩に出たらヤエヤマオオコオモリが飛んでいて感激、翌々日の夜はサキシマハブを生け捕りにした。いったん石垣島に戻って島内各地に行ったり、与那国島に行ったりした後、準備を整えて3月9日再び西表島の大原に上陸した。

 あのころの西表島は大原などの東海岸には営林署のジープが1台、上原や祖納などの西海岸にはトラックが1台あるだけであとは水牛車だった。東海岸と西海岸をつなぐ道路はなく、船で一度石垣島に出て渡り直した。それとも潮の様子を見ながら海岸を歩いて行くか、2日かけて山を越えるかだった。大原からの林道はまだ開通していない、古見の集落からなら途中の小屋を使って行けるという。3月10日の朝、古見に向けて出発した。古見では公民館に泊まっていた早稲田大学の学生たちに会った。西海岸から横断してきたという。今は使われていない電話線の碍子を頼りに行けばいいなどとアドバイスを聞いて出発した。はじめはリュウキュウウラボシシジミがいると喜んでいたがやがて雨が降ってきた。大きなヤスデがはっていた。ヤマビルがいっぱい足に付いてきた。ようやく東屋のような簡単な小屋に到着、早稲田の学生が残しておいてくれた缶詰をいただいた。降っていた雨は止んで、ホタルが光っていた。

 3月11日、西表島横断の続きを開始する。ようやく浦内川上流のカンビレーの滝に出た。期待していたイリオモテヤマネコとの出会いも糞や足跡などの痕跡もなかった。滝の上を渡渉して対岸にある歩道を稲葉の集落に向かった。この時にモンシロチョウを1頭採集しているのだが、日記にはカラスアゲハ、ミカドアゲハ、ツマベニチョウ、ヤエヤマイチモンジといった華やかな種類ばかりが書かれてあった。

 西海岸の祖納ではサバニという小船を1日5ドルでチャーターして、クイラ川、仲良川を遡上した。夜明け前夢を見た。電車に乗っていた。ずいぶん揺れる電車だ。振り落とされそうだ。自家発電の明かりが点いて目が覚めた。地震だった。そのまままた眠ってしまったが津波を警戒して高台に避難していた人もあったと翌朝になって聞いた。隣の与那国島では家の下敷きになって亡くなった人もいた。翌日湾の中を4頭のサメが泳いでいた。地震に追われて逃げ込んだのだろうと言っていた。西表島での採集旅行は後から振り返れば私にとって最大の冒険旅行だった。

 沖縄本島に戻った。恩納村ではたくさんのモンシロチョウが飛んでいた。モンシロチョウは元々沖縄には生息していなかったが、本島にはだいぶ前から入っていたようだ。一方、先島諸島の記録は少なく、西表島、与那国島の記録はなかった。原始の島、ヤマネコの島での一番の発見はモンシロチョウだった。

 しばらくして「昆虫と自然」編集部から「むしぺん」特集の原稿の依頼が来たので「先島諸島のモンシロチョウ」という短報*を書いた。 

2♀ 宮古島西里 1966年2月25日
1♀ 石垣島大川 1966年3月15日
1♀ 西表島カンビレーの滝〜稲葉 1966年3月11日
1♂ 与那国島祖納 1966年 3月4日

 その後、何にだったか忘れてしまったがモンシロチョウの分布拡大についての報文が出た。私の記録は短報だったためだろう、見落とされていた。西表島のモンシロチョウを最初に発見したのは私です。改めてそのことを主張したいのでこの文を書く。

 その後何回か沖縄に行くたびに那覇の崇元寺石門の前に立つことにしている。時代も街もすっかり変わってしまったがここだけは昔のままだ。あの時の冒険はここのモンシロチョウから始まった。そしてモンシロチョウで終わった。

 *清邦彦,1970.沖縄先島諸島のモンシロチョウ.昆虫と自然5(12):3.

 ちゃっきりむし No.220-1 (2024年5月)

 靜岡県立森林公園のハッチョウトンボと湧水湿地 瀬下亜希

 私がトンボに惹かれるようになったのは、2014年に桶ヶ谷沼ビジターセンターで開催された油井雅樹さんのトンボ写真展を拝見してからだ。トンボの個性を映し出し、その種が生きる空間を湿度や温度もひっくるめ風景まるごと描き出す世界観に心奪われた。自分もこんな風景を見たいと強く思った。その展示を企画されたのが、当時桶ヶ谷沼ビジターセンターのセンター長を務めておられた福井順治さんだ。お二方を通じ、トンボの世界へ踏み込ませていただき、様々なトンボを観察する機会を得させていただいた。またトンボに関係するたくさんの方々にも出会わせていただいた。このことは私にとって宝であり、今もって感謝してもしきれない。

日本一小さくて真っ赤なトンボ、ハッチョウトンボに出会ったのはその頃だ。初めて目にしたときは、やはりその小ささに驚いた。小刻みに震えるような、か細い飛び方には、母性本能をくすぐられるような感覚を覚えた。 6月、湧水湿地と呼ばれる湿地にて、地表を薄く流れる水の涼やかな音を感じながら、地面にしゃがみこむ。背中に強い日差しを浴びながら構えたカメラが狙うのは、真っ赤なハッチョウトンボ。20センチ程の高さの湿生植物の先端に、ちょこんと止まり、縄張りを張るオス。赤と黒、上下のツートンの複眼にピントが合うよう、息を止めシャッターを切る。私は撮影技術も感性もまるで持ち合わせていないが見よう見まねでやってみる。

 オスが縄張りとする広さは、直径1mほどと聞く。確かに数時間、観察していても、同じような場所から大きく動く様子が見られない。同じ個体かどうか確かめる術はないが、翌日以降も似たような場所でハッチョウトンボのオスを見かける。弱々しい印象のトンボだが、漢らしい瞬間も訪れる。縄張りに侵入する他のオスには容赦ない。それまでと打って変わり、俊敏な動きで追い出す。これぞ勝ち虫!とトンボの性を見せつけられ、目の覚める思いがする。

<園内トンボ類の減少>
ハッチョウトンボは「静岡県レッドデータブック」で県絶滅危惧TB類に位置付けられ、その分布は県内では西部地域のみ。「確実な産地は天竜川以西に限られる(静岡県レッドデータブック2019動物編267頁)」。天竜川の西に位置する静岡県立森林公園は、ハッチョウトンボの産地のひとつ。私の勤務先でもあるため、園内湿地については、仕事で管理作業を行っている。

 残念ながら、園内におけるハッチョウトンボの生息数は、年々減少の一途をたどる。2022年夏にオス1頭を確認したのを最後に、2023年のシーズンには自分では1頭も確認できなかった。どなたかご覧になっている方がいらっしゃればと思うが。

公園は、石灰岩やチャート、泥岩からなる秩父帯ジュラ紀付加コンプレックスと呼ばれる地質体の上に、鴨江礫層が被る形の地質。地形は起伏に富み、細流や湿地が多い。三方原用水路の工事が着手された昭和35年頃に西ノ谷奥池(ため池)が、また平成5年に谷地地形を活用したうぐいす谷親水広場(浅い水辺)が整備される。水のしたたる崖地もあるなど、水辺のタイプが豊富なため、様々なトンボが暮らすには良い公園だ。春にはシオヤトンボやヤマサナエ、アサヒナカワトンボ、初夏にはサラサヤンマ、クロスジギンヤンマ、夏にはオニヤンマ、オオシオカラトンボ、秋には真っ赤なマユタテアカネやヒメアカネ、晩秋には茶色くなったホソミイトトンンボなど四季折々に楽しめる。

 なかでも染み出し水が地表を潤す湧水湿地は、この公園の自然の大きな特徴のひとつ。ここにハッチョウトンボの姿があった。ただ、ハッチョウトンボを筆頭に、園内のトンボ全般、種数も個体数も減っているのかなと新参者の私でも感じる。

<自然の変遷>
1974年、1975年発行の、静岡県立森林公園の昆虫についての報告では、ハッチョウトンボの記載に、次のコメントが添えられる。

「1973.6.17、7.7、8.9、10.14に確認。西の谷奥池と西の谷池の間にある3カ所の湿地には個体数が多い。遠州随一の発生地と考えられる。10月中旬まで生き延びる個体がある事は、好環境である証拠であろう。(「浜北森林公園内の昆虫相」1974、渡辺一雄)」
「1974.7.26、8.6に確認。公園内にある湿地には、どこでも群れが見られる。(「浜北森林公園内の昆虫相調査報告」1975、渡辺一雄)」

添付地図には、園内の湿地数カ所にハッチョウトンボと記される。地域絶滅の危機に瀕する現状を目の当たりにする今、50年前のまばゆいばかりの記載に複雑な思いを抱く。当時は一体、どのような自然環境だったのか?

森林公園は、明治?大正時代にかけては御料林であったが、大正14年(1925年)9月に宮内省帝室林野局より静岡県に払い下げられ、昭和40年(1965年)から自然公園が開設された。

 園内では、昭和40年代(1965年)までマツタケが採れた。大正2年(1913年)1月発行「赤佐村村史(赤佐尋常小學校)」には、「山林産物トシテハ松茸アリ年産千円以上ニ及ブ」とある。地元在住で、森林公園でボランティアをされる70歳代のIさんやNさん、よく来園される80歳代のNさんなどに、昔の森林公園やその周辺の様子についてお話を伺った。すると、子供の頃は家の手伝いでゴカキをした、マツタケがカゴいっぱい採れたと、みなさん口を揃えて仰る。シーズンには入会制となり、ある区画の権利をとった業者が、一般客向けにマツタケ狩りの商いをしたり、公園開設当初はマツタケ採取禁止の看板があったりといった話を聞かせていただく。

ハッチョウトンボの「遠州随一の発生地」、「湿地には、どこでも群れ」と記載されたのは、マツタケ全盛期から10年近くあとのこと。マツタケがだんだん取れなくなるころだ。

アカマツの菌根菌であるマツタケは、樹齢20?40年生に子実体を活発につくるそう。またマツタケ菌は、ゴカキで落ち葉が取り除かれ、林床のすっきりした場所、他の菌類の少ない貧栄養な場所を好むとのこと。

1972年発行の公園パンフレットに掲載される風景写真は、植生のほとんどがアカマツ純林だ。林床は地面が見え、尾根向こうまで地表が続く。アカマツの 樹齢は、太くても50年ほどに見える。1978年発行の「遠州の自然創刊号」では、「アカマツを主とした二次林に占められ、林床は明るい(渡辺一雄「静岡県立森林公園の昆虫相」43頁)」とある。まだ林床植生は込み合ってはいなさそうだ。

対して今、園内は全域で植生遷移が進む。アカマツ林では樹齢100年を超えるものが目立つ。コナラ、リョウブ、ソヨゴ、ヒサカキ、アラカシ、ツブラジイなど落葉・常緑樹も高木化している。林床は、常緑樹が覆って暗いか、ウラジロとコシダが密生し、マットレス状態となり散策道の際まで迫り、地面は見えない。

 昭和40年代(1965年)と現在では、植生の違いは歴然だ。薪炭林利用がなくなってから50年以上経過するのだから、これは自然の理でもある。  同時に昭和50年代(1975年)からは松枯れ被害が全国各地で拡大する。森林公園においても、松枯れ防止のための薬剤空中散布が1979年より毎年実施される。これによる昆虫類への影響は懸念事項である。

<ハッチョウトンボの暮らす湧水湿地を未来へ>
天竜奥三河国定公園に指定される森林公園においては、生物多様性保全に向け、湿地保全作業が、2005年よりボランティアの力を借りて続けられている。主に冬季の草刈りが行われる。ただそれでも、刈り残った根などによる陸地化、乾燥化が進み、湿地内外で芽吹いたヤマモモ、スギ、コナラなどが高木化、その落ち葉の堆積も陸地化等に拍車をかける。草刈りの行われてこなかった湿地周辺部は、シダや樹木の生長目覚ましく、これらが湿地水量に影響を及ぼす一因とも考えられる。加えて昨今の異常な猛暑。2019年以降、湧水湿地がカリカリに干上がったこともある。ハッチョウトンボのヤゴへのダメージは大きいのではと想像する。

 ハッチョウトンボ激減を危惧し、2020年からは「ハッチョウトンボの暮らす湿地づくり」と謳い、ハッチョウトンボを指標種に作業を行っている。トウカイコモウセンゴケやミミカキグサなど湿生植物豊かな湧水湿地の維持を目指す。樹木伐採、マットレス状のシダ除去が、湿地の水量増にもつながればと考える。環境を維持することで、周辺地域に残るはずのハッチョウトンボの飛来と繁殖に望みをつなぐ。

 湧水湿地を未来へとの思いから多くの方が共に汗を流す。私は美しい写真からトンボの世界へ誘われた。こうした活動が実を結び、いつしかまた、ハッチョウトンボの姿を追ってカメラを向ける日がくればと切に願う。

 ちゃっきりむし No.220-2 (2024年5月)

 西表島のモンシロチョウに関しての続き 諏訪哲夫

 当会の会報「ちゃっきりむし」の前号、219号に清邦彦会員が西表島のモンシロチョウについて書いておられた。これを読んでモンシロチョウを西表島で最初に採ったのはひょっとして私ではないのかと頭をよぎった。そこで当時の採集記録ノートを調べてみた。私が採ったのは1966年3月11日、西表島北部の上原で、ユースホステル上原旅館の前だった。清さんが採ったのも同じ3月11日でカンビレーの滝付近。この前日、私は3月10日にカンビレーの滝下流の稲葉集落(すでに廃村)でタイワンモンシロチョウを採っている。これはおそらく対馬を除けば日本初記録とみられる記録のため記憶が鮮明で、これらが錯綜して私の方が早かったと思ったわけなのだが、清さんが採集したのは古見から山越えをして稲葉集落に着いたのは夕方、私が採ったのは日中なので数時間早かったか。

 ちゃっきりむし No.221 (2024年9月)

 東京農工大学 日高研究室の思い出 片井信之

 私は、今から60年もの昔、1966年東京農工大学に入学しました。当時日高研究室には静岡高校出身の先輩、H井(農林水省の昆虫関係の研究施設に勤務)氏、そしてS井(北陸の国立大学教授、副学長を歴任)氏の2名がおりました。私自身は獣医学科入学で、卒業論文が必要ではないため、日高研に時々顔を出す程度に出入りしていたものです。そんな当時の日高敏隆教授との出会いでありましが、その思い出を記したいと思います。

 まず、日高先生の紹介です。ムツゴロウこと故畑正憲の著書から引用します。その著書は『われら動物みな兄弟』(1967年発行、協同企画 出版部)です。「不眠動物 日高敏隆氏 日高さんのまわりには、いろいろな伝説がもといついていたが、最も有名なのは、眠らないということです。彼は、昼間は、れっきとした出版社の社員なのです。つとめが終わると大学に現われ、明け方まで実験をし、寸時仮睡をとって翌日はちゃんと出社するのである。いつねむるのか、誰も知らなかった。多分ねむるとしても、1時間か2時間がせきのやまである。みんなは彼を不眠動物と名付けていた。」相当苦労して博士号をとり、東京農工大学農学部講師としてスタートしたのです。日高先生の博士論文は、アゲハチョウのサナギの保護色を決定する因子の研究です。

 つぎに有名なのが、語学力です。同書に「たぐい稀なるその語学の才能である。ヨーロッパで話される言葉は全部話すし、正確に死語まで入れると、当時で、23か国語をマスターしていた。嘘ではない。」日高先生の訳書をみると、英語はもちろんのことロシア語、ドイツ語、フランス語などからの翻訳があり、ローレンツのものも英語版からではなく、当然ドイツ語原本からの翻訳です。外国語の体得のコツについて、同書によれば、「おれのは、便所語学さ。他では一切勉強しない。」私自身の記憶では、若い時半年位入院し、その間にひとつの言語をマスターしたとのこと。入院を繰り返し、語学を修得したようです。

 さて、まず農工時代に多くの翻訳書をだしております。先生曰く、翻訳は語学力ではなく、日本語がきちんと書けないとダメだよ。多くの学生と一緒に訳本を出していますが、研究室出身の翻訳家も生まれています。多くの訳書のなかで、印象に残るのはK.ローレンツの『ソロモンの指環』、D.モリスの『裸のサル』でしょうか。ちなみにH井氏も、日高先生と共訳で『昆虫の世界』(1971年発行、平凡社)を出されています。

 さて研究室の話題にはいりたいのですが、山際寿一著『京大総長、ゴリラから生き方を学ぶ』(2015年発行、朝日新書)から引用します。同書のなかで「日高敏隆さん。著名な動物行動学者ですが、活躍されたのは1975年に京大の教授になられて以降。それ以前に東京農工大の教授をされていたころは、失礼な言い方をすれば、どちらかというと?(うだつ)があがらないほうだったそうです。?のあがらなかった時代の話で済みませんが、古い記憶をたどってみます。

 日高先生は、東大を卒業後、東京農工大学農学部講師となり、1965年教授となりました。農学部でも一般教養の生物学担当で、授業は1年生の生物学と農学科の昆虫学を担当していました。入学早々の1学年次に当時の一般教養の課目として日高先生から週1回半期にわたり生物学の授業を受けました。内容は当然のこと殆ど記憶にはありませんが、発生と分化などのことかな。ただ記憶にあるのは、講義の話術が非常に優れており、学生を90分間話術だけで、引き込んでいたことです。そして日高先生はノートとか書籍の類は一切持たず、ただチョークやちょっとした小道具のみで講義しました。

 当時の東京農工大学は国立大学2期校で世間的には全く無名で、旧制東京高等農林学校が大学となった学校です。さらに一般教養担当としての待遇で、研究予算を極乏しいものだったと思います。日高研に出入りする学生は、色々な学科からの寄せ集め、よく言えばムシなりが好きな者の集まりでした。その中で、卒論を対象とした研究?を行う学生もいました。

 研究予算など多分ほとんどない状態での研究ですから、高価な機器類はなく、手作りのものでした。光周性の研究と思われる装置では、茶箱の中にタイマーと電灯装置をつけた手作りな装置。またその当時アメリカシロヒトリが大発生、昆虫学者たちがグループを組織して研究し、日高先生は配偶行動を担当しました。白い敷布をいくつか縫い合わせ大きな布を作り、校舎の屋上からそれを壁に吊るし、飛んでくるアメリカシロヒトリの飛翔ルートをトレースし行動を解析するもので、早朝に動員された学生は大変だったようです。またある学生はマツノキハバチを材料とする卒論でした。そのハバチを手に入れるために、木曽駒ケ岳に日高先生ご夫妻とその学生、私にも来るようにとの依頼があり、4人で木曽駒ケ岳に行きました。頂上近くのハイマツの中に入り、容易にハバチは採集出来ましたが、その最中に監視員(どんな監視員かは不明)に見つかってしまい、注意を受けました。日高先生が一生懸命に謝り、何らの咎めを受けずで、今から60年近く前は寛容な良き時代だったようです。木曽駒から中央線での帰りの電車内で、ハバチの幼虫を入れていた容器から外に這い出してきて容器の周りをモゾモゾと動き回りました。4人は周りの乗客に気付かれはしないかとヒヤヒヤしながら、立川駅が待ち遠しかった思い出があります。

 モンシロチョウの配偶行動の研究で、交尾拒否姿勢や紫外線反射率の性差による違いなどを明らかにしました。研究は農学部農場などのキャベツ畑を利用し、また小さな温室フレームを研究室の隣に設置し行ったようです。行動観察には、好奇心と忍耐と記録用のノートが必須ですが、費用は殆どかかりません。?が上がらないような環境の中でも、創意工夫により研究を牽引し続けました。

 また記憶に残るのが、モンシロチョウ行動の教育映画の撮影です。監督は羽仁澄子さんという、羽仁進監督の助監督を務めた人で、『薄墨の桜』や『早池峰の賦』など多くの映画を作った日本映画における女性パイオニアです。撮影には多くのモンシロチョウが必要で、撮影スタッフの仕事は撮影よりもモンシロチョウの飼育でした。そして、日高研に出入りする学生には、幼虫採集のアルバイトが待っていました。講義が終わった夕方にはそれぞれ各人が見つけたキャベツ畑に行き幼虫を採集し、日高研の一室いるスタッフに届け、買い上げてもらいました。各人は消毒の行き届かない畑を見つけては、採集に行きその畑の場所はそれぞれ内緒にしていました。撮影には延べ3年間を要し、アルバイトとしては結構なものだったと記憶しております。ただ監督には、経費と年月が予想よりもかかり過ぎたようでした。しかしこの『もんしろちょう』(1968年)が何らかの賞をとったようで、日高先生としては、ホットした様子を記億しております。映画の内容は、殆ど記憶がありませんが、色々な色紙をしいたシャーレーに糖蜜?を入れ、どの色のところにモンシロチョウが飛んで集まるかなど。数年前ですが、この映画を使い高校の「科学と人間生活」の授業を行った報告がありました。チョウの行動観察から課題に仮設をたてて、実験で解き明かすような授業内容で、50年前の映画が今だに利用されているとは、日高先生も思いがけない事実だときっと思っていることです。

 日高先生は、日本動物行動学会を立ち上げた、動物行動学の開祖的な人です。そしてコンラーント・ローレンツを日本に紹介し、ローレンツの訳書を多く出しました。50年前の1973年ノーベル賞を受賞されました。私はすでに農工大を卒業していましたが、何かの機会で研究室を訪れた際、日高先生の喜びだけは記憶に残っております。

 うだつがあがらなかった*と言われた農工大時代、特に昆虫行動の研究が日高先生の動物行動学の元になり、発展していたものです。多くの著作の中で、『チョウはなぜ飛ぶか』(1975年岩波書店)が原点のひとつと思われます。農工大学内の農園の一角に植えられていたカラタチ並木を研究舞台としての観察記録が、子供達にも理解しやすく、また研究の取り組みなども分かりやすく書かれております。40年来アゲハチョウに興味を抱き、その結果としての著作であり、そのつきあいが行動学の原点かと思います。この本に紹介されている共同研究者はある大学からの女子大生たちです。出版関係の編集者の女性など、日高先生を取り巻く女性が多く存在し、うだがのあがらない雰囲気を一掃してくれたことになったとも思います。

*うだつがあがらない:思うようにならない。よい身分になれない。(岩波国語辞典)


 ちゃっきりむし No.222 (2024年12月)

 南のヒカゲと北のスジグロ? 鈴木英文

 私がヒカゲチョウ属(Lethe)を南の蝶と思っていたのは、南西諸島、台湾やもっと南の方の島にいるシロオビヒカゲ(Lethe Europa)やメスチャヒカゲ(L.chandica)を自分の手で採りたいと思っていたからで、思い立って1976年10月に西表島へシロオビヒカゲを採りに行った。蛇嫌いな私にとって竹藪に踏み込むのはハブが怖くて躊躇したが、なんとかシロオビヒカゲを採集できた。その2年前の1974年10月にフィリッピンのルソン島へ行った時にはサント・トーマス山で採集したダタエンシスヤマヒカゲ(L.dataensis)に感激した。そんなことがあってヒカゲチョウ属は南の蝶と思っていたのだが、この属の標本を多数収集するようになると、ヒカゲチョウ属が南の蝶との思い込みは次第に崩れていった。確かにこの属の大半は緯度的には日本より南にいるが、種数の一番多い地域は、中国の四川省・雲南省からミャンマー北部、インド東部にかけてで、以前は、いわゆる西部シナ系と言われた蝶の一つで、その属の一部の種が南方に分布を拡大した形をとっている。そのことは2010年にミャンマー北部のカチン州で一ヶ月採集してみて、その種類の多さから、やはりこの辺りがヒカゲチョウ属の分布の中心だろうと言うことが実感として良くわかった。

 一方スジグロチョウ(Pieris melete)が北方系の蝶だと私が思っていたのは、なぜだろう。たぶん故・北條篤史氏がスジグロチョウや、当時エゾスジグロチョウと呼んでいたPieris napiを「雪のように白いピエリス」と、多分に詩的な表現で呼んでいたからではなかろうか。またエゾスジグロがヨーロッパからシベリア経由で日本に繋がるPieris napiの系統だと言われていたこともあるかもしれない。1979年当時、ソ連邦のコーカサスに採集に行ったら、ブリオニエ(P.bryoniae)というエゾスジの仲間でnapi種群の蝶が、氷河を背景としたお花畑に多数飛んでいた。コーカサスは緯度的には日本とほとんど変わらないのだが、この時のイメージは、なるほど確かに北の蝶だと思った。しかしスジグロチョウの仲間は、北にも南にもいた。四川省の青城后山に行ったら、見たところ夏型のスジグロそっくりな蝶がモンシロチョウ(P.rapae)やタイワンモンシロチョウ(P.canidia)に交じって飛んでいる。ラオスやミャンマーの比較的標高の高いところにも同じような蝶がいた。この蝶はのちにnapi系のアジアスジグロシロチョウ(P.erutae)と解った。ロシアのハバロフスクにはエゾスジグロに似た蝶(P.dulcinea)が飛んでいた。そんなことから国内に普通にいるスジグロは中国大陸にも普通にいるんだろうなと思っていたら、1979年に故・日浦勇氏がスジグロチョウは周日本海型の分布をする蝶だと指摘していた。

 以前はそれ程興味がなかったスジグロチョウだが、それでも故・北條篤史氏の影響で、海外採集の折には目に付けば採集したり、標本を頂いたりして集めたものを、今回改めて確かめてみた。国内では北海道、本州、四国、九州、屋久島、対馬などに分布。国外では樺太南部、ロシア沿海州南部、吉林省南東部、朝鮮半島全域、済州島に分布することを確認した。樺太中北部、ロシア沿海州北部より北には分布しない。また、西方でも北京、河北省までは分布しない。やはり日浦さんの言う通りの分布図が描けた(図1)。

 それならかつてエゾスジグロチョウと呼んでいた蝶はどうか、現在ではエゾスジグロシロチョウ(エゾスジ)とヤマトスジグロシロチョウ(ヤマトスジ)に分けられ、北海道全域をエゾスジ(P.dulcinea)、北海道の札幌低地帯以西と本州、四国、九州にヤマトスジ(P.nesis)が分布する。札幌低地帯から西の渡島半島では、この二種が混生する。標本を見るとほぼそのとうりだが、渡島半島で採集された個体の中には、そのどちらとも言えないものもあるので、あるいは一部自然交配も疑われる。

 この二種の国外での分布はと言うと、ヤマトスジは国内のみ。唯一韓国済州島の漢拏山(ハンラサン)高地帯で記載された「P.napi hannarensis」が図鑑で見る限りヤマトスジの可能性がある(図2)。Pieris属の総覧を作成したEitschberger氏はこれをアジアスジグロシロチョウ(P.erutae)の亜種としているが、♀の後翅裏面の黄色の強さから見て、中国の浙江省から山東省あたりの海岸近くに分布するラトウチェスジグロシロチョウ(P.latouchei)の可能性も考えられる。これはDNAの解析を待つしかない。エゾスジの国外の分布は、樺太全域、ロシア沿海州、ハバロフスク州南半部、中国東北三省の南東部、北京、河北省、朝鮮半島においては北部では平地にも分布するが、南半部の韓国では北部の江原道の山地のみになる。中鮮国境の白頭山(長白山)あたりから繋がる山地沿いに半島を南下していると思われる。或いはもっと南にも分布するのかも知れないが、あいにく江原道以外の標本を見ていない。釜山までは南下していないと思う。南西方では河北省の東霊山の標本があるので、この辺りまで分布すると思われる。陝西省の秦嶺山脈に分布するというのは多分誤りであろう。北方については手元にはハバロフスク州南半部までの標本しかないので、図3ではそこまでしか図示していないが、ヤクーツクやカムチャツカのもの(P.bryoniae kamtschadalis)もエゾスジ(P.dulcinea)とするDNAでの研究がある。ハバロフスク州北部ぐらいから北では、7月に発生する春型の年一化となるため採集時期が合わせにくく、特に春型は種の同定が難しいため、最終的にはDNA解析に頼るしかなく、アマチュア蝶屋には敷居が高い。西北方では、ロシアのウランウデで採集した♂があるが、ハバロフスク州で採集したエゾスジ(P.dulcinea)とは少し違うので、バイカル湖周辺に居るとされるP.euorientisかも知れない。エゾスジ(P.dulcinea)はここまでは広がっていないのだと思う。

 ここで今まで挙げてきたPieris属各種の系統関係をとりあえず纏めて簡単な図にしてみた。この図はこれからのDNAの解析で変わることがあることは初めにおことわりしておく。

まずPieris属はオオモンシロチョウ(P.brassicae)を含むPieris亜属とモンシロチョウ(P.rapae)やスジグロシロチョウ(P.melete)を含むArtogeia亜属に分かれる。Artogeia亜属はモンシロチョウ(P.rapae)やタイワンモンシロチョウ(P.canidia)などのrapae種群とスジグロシロチョウ(P.melete)やヤマトスジグロシロチョウ(P.nesis)を含むnapi種群に分かれる。さらにこの図のochsenheimeri以下をnapi-complex(napi上種)と呼んでいる。

これを見ると一見似ていて同定間違いしやすい、スジグロ (P.melete)とエゾスジ(P.dulcinea) ヤマトスジ(P.nesis)が結構離れていることがわかる。スジグロの分布が周日本海に限定されていることはnapi種群の中でも比較的早い時期に分化したのだろう。

 それに対し、ヤマトスジ(P.nesis)は札幌低地帯が海だったころにエゾスジ(P.dulcinea)から分化したのではなかろうか。またその頃済州島の漢拏山(ハンラサン)は九州と繋がっていたのか、上海あたりと繋がっていたのか興味のあるところである。

 東アジアに分布するnapi-complexのエゾスジグロ(P.dulcinea) ヤマトスジグロ(P.nesis) アジアスジグロ (P.erutae) ラトウチェスジグロ (P.latouchei)の4種はごく近縁のもの同士だった。そしてnapi-complexの中で、夏型が大型化するこの4種は東アジア・東南アジア特有ものかもしれない。他の地域のnapi-complexの各種の夏型はこれほど大きくはならない。とすると、北アフリカからヨーロッパ、シベリア、ヒマラヤから東南アジア、北米まで分布するnapi-complexの中で、東アジア・東南アジアのnapi-complex4種は、また特別なグループなのだろう。